カナリアメイズ

ままならないオタクによる、フリーダム&カオスな雑記庫。

夢野幻太郎「シナリオライアー」とは何だったのか考えてたら6000字超えた

1.はじめに

 ツイッターのハイライトを眺めていると、ヒプマイクラスタのフォロイーたちがざわついていた。調べてみると、夢野幻太郎の最初のソロ曲にしてシブヤFlingPosseの最初のCD(FPSM)に収録されている「シナリオライアー」について、作詞者の森心言氏がツイートしたことがきっかけのようだった。

 ツイートへのリンクは下記の通り(文脈上引用元ツイートも載せさせていただいた)で、要するに

「シナリオライアーの歌詞は、『嘘つきの小説家』というキャラクター設定以外の指示を受けていなかった森氏が、独自に考えたものであった」

ということが明らかになったのである。

  

 

 

 

 「シナリオライアー(以下シナライ)の内容に公式が関与していなかった」という事実は、多くのヒプマイオタク(特に夢野オタク)を動揺させている。私も夢野オタクの一人として、色々と考えてしまったので、思考の整理を兼ねて少し書き出してみる。あくまで一ファンの個人的な考えとして読んでいただければと思う。

 2.なぜオタクは「全部嘘だったのか!?」と叫ぶのか

(1)シナライの内容と受容のされ方

 この文章を読んでいる方に今更説明は不要かもしれないが、シナライがどういう楽曲であるかを軽く振り返っておく。

 本曲は、夢野幻太郎が「『小生』の過去の話」として語るように歌う楽曲である。捨て子だった「小生」は優しい老夫婦に拾われ、貧しいながらも大切に育てられたが、「小生」は老夫婦を思いやるがゆえにある時二人に「初めての嘘」をついてしまった。やがて成長した「小生」は進学したが、学内で孤立し心を閉ざしていた。そんな彼に一人の青年が「友達になろう」と声をかけたが、「小生」は「友達なんていらない」と「二度目の嘘」をついてしまう。その直後、青年が病に倒れたと知った「小生」は彼を見舞い、昔育ての親にしてもらったようにデタラメな作り話を語り聞かせるようになり、今に至る。これが「小生」が嘘つきになった経緯である――という物語は、最後の最後「ま、全部嘘なんだけどね」の一言で締めくくられる。

 シナライで語られた「小生の過去」は、とても感動的で説得力のある物語だった。多くの聞き手がシナライの「物語」に魅せられ、それを(多少の程度差はあれ)「夢野幻太郎の過去」として受け取った(そう受け取られた理由は楽曲の外にもあるのだが、それは後で述べる)。夢野にまつわるファンフィクションの中にも、シナライを前提としたモチーフ(温かな幼少期、過酷な学生時代、「青年」の存在など)が多く登場した。聞き手(特に夢野オタク)にとって、シナライは「夢野幻太郎」というキャラクターを解釈するための論拠となっていたと言える。

 ところが、コミカライズやドラマトラックなどで明かされた「真実」(夢野には昏睡状態の「兄さん」がいる等)によって、徐々に「シナライの内容は『嘘』なのではないか」という考えが聞き手の間でも増えてきていた。そこに森氏のツイートが投下されたのだ。「『小生』の過去」が全て一人のアーティストの創作だと明らかになったことで、「シナライは全部嘘だったのか!?」という声も少なからず上がっている。そして、「シナライが嘘だったら、自分が今まで信じてきた『夢野幻太郎』とは何だったのか」とショックを受けている人もいると思われる。

 ここで、「いや、曲の最後でも『全部嘘だけどね』って言ってたのに、それを信じてしまうなんてあまりにもナイーブじゃないの?」と思われる方もいるかも知れない。だが、それには先ほど触れた「楽曲の外」の理由が関わっている。それを説明するために、私が夢野幻太郎というキャラにハマったきっかけを紹介したい。

 (2)私はなぜシナライを信じたか

 正直なところ、シナライを初めて聴いた時点では、それが本当に「夢野幻太郎の過去」を語っているのか半信半疑だった。出来すぎなくらい完璧な「それっぽい話」だったし、やっぱり最後の「全部嘘だけどね」が効いていた。

 ところが、シナライと同じCD(FPSM)に収録されている、FlingPosse結成の経緯を描いたドラマトラックで、事情が一変する。夢野をスカウトしに来た乱数が「病気の友達のために小説を書いてるんでしょ?」みたいな、シナライの内容と同じようなことを言い、夢野はそれを否定しなかったのだ。私はこのやり取りを以て「シナライは事実だ」と判断し、夢野に落ちた。

 夢野がシナライに描かれていた通りの優しくて一途な男だった、というだけなら、ここまでハマらなかった。私にとっての問題は、「シナライの内容が事実であるにもかかわらずそれを『嘘』だと言った」ことだった。

 「嘘の中に真実を混ぜ込んでしまう/真実が嘘として扱われたって構わない(むしろ望むところ)と思っている夢野幻太郎」こそが、当時の私がハマった夢野だった。つまり、「『シナライの内容は嘘だ』と言ったのが嘘だった」という前提によって、私は夢野を好きになったのだ。

 だから、「『“シナライの内容は嘘だ”と言ったのが嘘だった』のが嘘だった」ということが濃厚となったことに、何の動揺もないと言ったらそれこそ嘘になる。一方で、私個人としてはこれからも変わらずに夢野推しでいるだろうな、とも思っている。その理由について語る前に、「シナライはいつから『嘘(厳密には「非真実」)』になったのか」という疑問について書いておきたい。

 3.シナライはいつから「嘘」になったのか

(1)「シナライが真実だった期間」が存在する可能性について

 最初に、この項で書くことは全てライトファンの憶測であり、妄想の域を出ないことをお断りしておく。

 ヒプノシスマイクは、ご存知の通り「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」である。後で改めて述べるが、この「音楽原作」というのはかなり的を射た表現で、「楽曲から本編シナリオへのフィードバック」が割と頻繁に起こっている。今回の森氏のツイートでは、FPSMのドラマトラック中に出てきた「病気の友達のために小説を書いている」という要素が、森氏から上がってきたシナライを見てから取り入れられたものであることが明らかになった。

 さて、ここで「シナライ=真実」という仮説が有力視されていた/疑われるようになった経過を自分なりにまとめてみる。

 そもそも、乱数の「夢野は病気の友達のために小説を書いている」という認識は、彼が一郎に依頼した「夢野幻太郎」に関する調査結果に基づいたものだった。その調査結果をまとめたのは三郎なのだが、彼は「信憑性の高い闇サイト」および「夢野幻太郎の関係者」からの情報によって「夢野は病気の友達のために小説を書いている≒シナライの内容」は真実である、と判断したし、我々聞き手もそう信じた。

 ところが、後になって発表されたコミカライズの中で、三郎が得た闇サイトの情報は改ざんされていたこと、関係者を名乗る天谷奴という男は「詐欺師」だったこと(さらに後になって、彼は山田三兄弟の父親だと判明する)が発覚する。こうなると、乱数が手にした(≒聞き手が信じた)夢野に関する情報(≒シナライの内容)の信憑性は一気に下がってくる。その後、夢野に関する別の「真実」(昏睡状態の「兄さん」がいる等)が明らかになっていくことで、「(真実が別にあるなら)シナライは嘘なのではないか」という疑いはいよいよ強まり、今回の森氏のツイートで一つのピークに達したと言えるだろう。

 ここで話をややこしくしているのが、ヒプマイの特徴の一つ、「脚本が割と適当」という点である。若干悪口めいてしまうが、ヒプマイの脚本(特にドラマトラック)はよく言えばライブ感満載、悪く言えば行きあたりばったりで、個人的にはあまり信用していない。ドラマトラックでの物語をコミカライズのシナリオで補完するというのも日常茶飯事であり、根幹的な設定も割と適当なんじゃないか、という疑念を抱かざるを得ない部分がある。

 つまり、これは完全な憶測だが、公式(本編シナリオ制作陣)の中で、プロジェクトが進行する過程でシナライの内容が「真実」から「嘘」に設定変更された可能性が否定できないのだ。コミカライズ時点では「嘘」ということに決着していたにせよ、FPSMが発売された時点ではシナライの内容を「真実」として扱っていたのではないか――この疑念について深く追及するつもりはないが、もう一点すごく気になっている部分を書いておきたい。

(2)斉藤壮馬は知っていたのか?

 夢野幻太郎のCVを担当している斉藤壮馬氏。インタビューなどからは彼が夢野に対して真摯に向き合って演じている様子が感じ取れるし、ライブパフォーマンスも素晴らしいものを見せてくれる。そこで疑問に思うのは、「斉藤氏はいつから『シナライは真実ではない』と知って(思って)いたのか?」という点だ。というのも、斉藤氏のライブでのシナライの歌い方が前々から気になっていたのだが、今回の件と合わせて考えると(私の中で)納得の行く推測ができる気がするからだ(重ねて言うが完全に個人の妄想なのであまり真に受けないでいただければと思う)。

 斉藤氏がライブで「シナリオライアー」を歌ったのは2回。2018年11月の3rdライブと2019年9月の4thライブである。その両方ともが、CD音源と比べて明らかに「激しい」歌い方になっていたのだ。特に顕著なのが大サビ前の「小生は何度だって『嘘をつこう』」の部分で、感覚的な表現になるが、CDでは嫣然というか腹の底が見えない感じで「嘘をつこう」と言っているのが、ライブでは「嘘をつこう!」と悲痛ささえ感じる叫び声を上げていた。一方で、最後の「ま、全部嘘なんだけどね」は、演出もあいまってすごくお茶目というかケロッとした感じで表現されていたように思う。

 3rdライブの時は、「斉藤氏(もしくは夢野)はライブだと激情型になるのかな?」などと思っていたのだが、疑惑のコミカライズ(2019.2発表)を経た4thライブの後には、「あれは『芝居がかった演技』なのかもしれない」と思うようになった。そして、今回の件でその思いは更に強まった。つまり、斉藤氏はCD収録時点では「シナライの内容=真実」という前提で歌唱していたが、「シナライの内容=嘘」という設定が固まった(と思われる)ライブの時点では、「夢野幻太郎が『嘘』を語るなら」という観点からパフォーマンスを行ったのではないか、と考えることができる気がする。

 真相は斉藤氏のみぞ知るところだし、これは私が演者としての斉藤壮馬を深く信頼しているからこその妄想である。夢野がどう嘘を語り、どう真実を語るのかを表現してくれるのは斉藤氏をおいて他にないので、これからも素敵な演技を期待したい。

4.それでも「シナリオライアー」は「全部嘘」ではない

(1)「音楽原作プロジェクト」の面白さ

 前述のとおり、「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」であるヒプノシスマイクにおいては、「楽曲から本編シナリオへのフィードバック」が頻繁に起こっている。もちろん「本編シナリオから楽曲へのフィードバック」もたくさんあるが、特にシナライを含めた最初期の楽曲の場合、楽曲提供者はキャラクターについてほとんど何も知らされないまま曲を作っていたそうだ(同時期に発表された麻天狼・伊弉冉一二三のソロ曲「シャンパンゴールド」の楽曲提供者・藤森慎吾氏によれば、A4一枚くらいの資料しかなかったらしい)。個人的には、ここまで情報を絞っていた(あるいは公式側で固めていなかった)のは、「音楽原作」だったからこそだと思う。少なくともプロジェクト開始間もない頃は、既存のキャラクターの個性に基づいて楽曲を制作するのではなく、楽曲から立ち現れてくるキャラクターの個性をそのまま彼らの設定の肉付けに利用したと考えられる。これは、一般的なキャラソンの文脈とは明らかに異なっており、ヒプマイの大きな特長と言えるだろう。

 なお、少し話はそれるが、ヒプマイにおいては別々の作曲者による楽曲同士が相互作用を起こしているケース(引用や、別の曲のアンサーになるような歌詞など)も多くある。これは、サンプリング等のヒップホップカルチャーの流れをくんでいるのではと門外漢ながら思っている。これも他のジャンルでは珍しいことで、とても面白いと感じている。

 ともあれ、ヒプマイというコンテンツにおいて、「楽曲」というのは非常に大きな位置を占めている。そして、「ヒプノシスマイクが音楽原作である」がゆえに、シナライは、ひいては夢野幻太郎は「嘘」なんかじゃない、と言えるのではないかと思う。

 (2)「全部嘘」のシナライの中にある「真実」

 シナライが嘘ではない、とはどういうことか。

 まず、今の私は「シナライの内容」は嘘だろう、少なくともすべてが本当にあったことではないだろうと思っている。夢野幻太郎は捨て子ではなかったかもしれないし愛を受けて育ってはいなかったかもしれないし「友達になろう」と声をかけてくれた青年なんていなかったかもしれない。ひょっとしたら、一部の設定は「真実」として採用されるかもしれないけれど、可能性はそう高くはないだろう。

 でも、「真実」はある。少なくとも、「真実になったこと」はある。それは、夢野の「夢野らしさ」だ。

 今までの本編シナリオを振り返ってみると、「小生」が老夫婦を気遣った優しさは、夢野が仲間に向ける優しさに通じているし、たった一言声をかけてくれた青年を「光」と呼んで物語を書き続ける情の深さは、「兄さん」の残した大事な原稿を乱数のために帝統に預けたことにもつながっているように思う。これは、「シナライが本編シナリオに出てくる夢野の個性を正しく描いていた」というより、「シナライで生まれた夢野の個性を本編シナリオが拾い育てた」といったほうがいいだろう。つまり、「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」において、シナリオライアーが「夢野幻太郎」というキャラクターの根幹(の一部)を作り上げたのは間違いないはずだ。

 だから、私は夢野幻太郎のオタクでいつづけられると思う。きっかけの前提がなくなってしまっても、私が「好きだ」と思った夢野らしさは最初から一貫して存在し続けている。それは、今示唆されている「夢野幻太郎は『夢野幻太郎』ではないかもしれない」という可能性が真実だったとしても変わらないだろう。私にとっては、3年以上見守ってきた『彼』こそが「夢野幻太郎」だ。

5.おわりに

 以上、思うままに書き連ねてみた。文字にする中で、今回自分が何に動揺し何を考えたのかが整頓できたし、自分なりに納得の行く結論を持てた。もし楽しんでいただけたのなら幸いだ。

 最後になりましたが、シナリオライアーという素晴らしい「物語」を紡いでくださった森心言さん、それを夢野幻太郎として表現してくださった斉藤壮馬さん、改めてありがとうございました。