カナリアメイズ

ままならないオタクによる、フリーダム&カオスな雑記庫。

夢野幻太郎「蕚」の歌詞について1万字くらい解釈を語る(note記事再掲)

※この記事は、2020年3月1日にnoteに公開した記事の再掲です。

 

 

先日、アニメイトヒプノシスマイクの新譜「Fling Posse -Before The 2nd D.R.B-」を買って聴いた。どの曲もドラマパートもすごく良くて、シブヤ推しで本当に良かったと改めて思った。
その中で、特に気になったのが、夢野幻太郎のソロ曲「蕚」(うてな)だった。試聴の段階で詞も曲も歌も何もかもが綺麗だと思っていたのだが、いかんせん歌詞が難しい。難しい熟語とか詩的な言い回しとか、サラッと聴いただけでは意味を捉えづらかった。
フィーリングで聴いても十二分にいい曲なのだが、私は夢野推しであり、このリリックと真正面から取り組んでみようと思った。そして、どうにか自分なりに納得の行く解釈ができたので記録しておく。

アホほど長い文章なので、先に要点を三行で書いておくと、
1.蕚とは夢野自身
2.夢野がポッセと出会って変わったことやポッセを大切に思う気持ちを綴った曲
3.「不確かなもの」-「確かなもの」という対比

みたいな感じである。

基本的には極めて恣意的な解釈であり、論理の飛躍や混乱などもあるだろうし、読みづらい部分も多いと思うが、あくまでも一介のファンの妄想として生暖かい目で読んでいただければ幸いである。

 

本題に入る前に説明しておきたいのが、この解釈がこれまでのドラマパートなどの情報に基づいた、次のような仮説を前提になされたものであることだ。

仮説1:私たちが夢野幻太郎だと思っている人物(以下『彼』とする)は、本当は「夢野幻太郎」ではなく、ただ「夢野幻太郎」として(演じて?)生きているだけである
→これは、今回のドラマパートでの『彼』の発言によるものである。彼の「自分は夢野幻太郎ではない」という言葉には、ただの嘘や戯言ではない響きがあった。

仮説2:本当の「夢野幻太郎」(以下『夢野幻太郎』とする)は、『彼』の(おそらくは一卵性の)双子の兄である
→コミカライズ中に出てきた『彼』の複数の作品に出てくる「双子」というキーワードから、『彼』には双子の兄弟がいることが示唆されていた。双子の入れ替わり・成り代わりというモチーフは、古くから用いられてきたものであり、今作も「『彼』は双子の兄弟=「兄さん」(今回のドラマパートより)のふりをして生きている」という設定である可能性は大いにある。

仮説3:『夢野幻太郎』は何らかの形で中王区の犠牲となっており、『彼』は復讐のために動いている
→これは、これまでコミカライズやドラマパートなどで示された、『夢野幻太郎』は入院中である・(おそらくは中王区による)「人体実験」の存在が示唆されている・『彼』は独自の人脈を持つなどして「目的」のために活動している、といった情報からの推測である。

これら3つの仮説は、主観的な感覚や憶測に基づいた部分もあり、客観的に正しいとは言えない。よって、それらに基づいた私の解釈も、客観的な正しさがあるものではなく、あくまでも個人の感想・妄想の域を出ないものである。予めご了承いただきたい。
また、文中の「ポッセ」という語句は、「Fling Posseの三人」と「『彼』を除いた乱数と帝統」の両方の意味で使わている。どちらなのかは文脈で判断していただければありがたい。
なお、本文中の引用はすべて、夢野幻太郎(CV:斉藤壮馬)「蕚」(作詞:basho、ESME MORI)によるものである。

 では、歌詞を頭から順に見ていこう。

なぞる斑 筆の走り 跨ぐ魚尾佇む白日
あまねく視野に広げた白紙、綴る嘘で誤魔化してく
泡沫の思い 運命も空蝉 枷に引きずる足並ぶつまさき
息づかい、交差しだす色の混ざり合い街の壁も塗り潰してく

一連目で主にうたわれているのは、『彼』の心もとなさだ。

まず一行目、斑とはまだら、まばら、もしくは「斑雪(まだらに降るor積もっている雪)」を指す。
さいころ遊んだ点つなぎ(点を順番に線でつないでいったら絵ができるやつ)を思い出すとわかるが、まばらなものを「なぞる」時には、ある種の心もとなさ、頼りなさが浮かんでくる。この線は本当に正しいなぞり方をできているのだろうか、間違った線を引いているのではないか、といった不安だ。
そんな心もとなさを感じつつも筆を走らせ、魚尾を跨ぐ(ここでは、原稿用紙を書き進めていく、くらいの意味だろう)『彼』は、白日の下に佇む。
ここでイメージされたのは、明るすぎてかえって不自然なほどの昼日なかの情景だ。何もかもが明るく照らされている中、『彼』はそのようなはっきりとした気持ちにはなれず、ただ佇んでいる。

二行目でも、引き続き『彼』の心もとなさが表現されている。
目の前いっぱいに白紙がある状態というのは何とも心もとない。そこで『彼』はそれを埋めるために、嘘を綴り「誤魔化して」いくという。誤魔化しとは、ある意味その場しのぎの行為であり、『彼』が真に実のあるもので白紙を埋められずにいる、という状態だとわかる。
一方で、「広げた」という表現に注目すると、「あまねく視野に『広がる』白紙」ではなく、「広げた」という能動的な動詞が使われていることが、視野いっぱいに白紙を広げたのは『彼』自身の意志だということを示唆している。
ここで、冒頭に挙げた仮説1を思い返してみる。「白紙を広げ綴る嘘で誤魔化す」とは、まさに「『夢野幻太郎』として生きる」という行為のことではないだろうか。つまり、『彼』は『夢野幻太郎』として生きることを、明確に自らの意志で選択していると考えられる。

だが、『彼』はそんな自分の在り方を、やはり心もとない、はかないものだと感じている。三行目に出てくる「泡沫」も「空蝉」も、はかないこと、ぬけがらのようなものを示す単語だ。『夢野幻太郎』の内側にある自分の思いも運命も、所詮ははかなく中身のないものだというあきらめが『彼』の中にはある。それが「枷」となり、その重みに足を引きずり、やがてつまさきが並んで――つまり歩くのをやめて立ち止まってしまう。


だが、四行目で転機が訪れる。息をついた『彼』の前で始まった「交差しだす色の混ざり合い」、すなわちFling Posseの結成だ(余談だが、私は「Shibuya Marble Texture」という曲名に表れているような、マーブル模様としてのポッセ、混ざり合っても溶け合うことはなく、だからこそ美しい模様を描いているポッセが大好きである)。彼らの出会いは、街の壁――直接には中王区との間にそびえる壁、比喩的に考えると彼らを取り巻く障害や閉塞感――を塗り潰し、景色を変え始める。

 

心の外まで 飛び散った花びら達の破片が
この風景を埋め尽くして 消えた道のり

二連目で問題になるのは、やはり「花びら」が意味するのは何か、ということだろう。だが、まず個人的に気になった表現について述べたい。すなわち、「破片」が「飛び散った」という比喩についてだ。

花びらは、多くの種類で一枚一枚に分かれている。飛び散った花びらというのは、いわばそれ自体が「花の破片」と言えるものだ。にもかかわらず、ここで「飛び散った」のは「『花びら達』の破片」だという。つまり、破片がさらに砕けている。これはどういうことだろうか。
一つの可能性として思い浮かんだイメージが、「ガラス細工の花」である。「飛び散る」も「破片」も、ガラスのような壊れ物が割れてしまった状態を連想させる単語だ。つまり、『彼』の心の中にあったガラス(のようなもの)の花が、何らかの理由で割れて、花びらの部分も細かく砕けてしまったのではないだろうか。また、割れた破片が「心の外」まで飛び散ったというから、割れた時の衝撃も大きかったと考えられる。

では、改めて『彼』の心の中にあった「ガラスの花」が何なのかを考えてみる。
ここでヒントになりそうなのが、「そもそも何が原因で『花びら達の破片』は『心の外まで飛び散った』のか」ということである。素直に考えると、『彼』の心に大きな衝撃を与えたのは、ポッセとの出会いだろう。乱数と帝統と出会い、彼らと過ごすことで壊れてしまったものは何か。はっきりとは断定できないが、ここでは「嘘」という可能性について述べてみる。

「嘘」とは、ここでは『彼』が『夢野幻太郎』として生きるために纏っている、鎧のようなものだと捉えたい。それはガラス細工のように繊細で、美しくも脆さをも持ったものである。『彼』はしばしばデタラメの話をしたり種々様々なキャラになりきった喋り方によって周りを煙に巻いたりするが、それは『夢野幻太郎』の幻を見せ続けるため、その内側の何者でもない『彼』自身を覆い隠す(あるいは守る)ための嘘、という側面がある。そうやって「誤魔化して」きた『彼』だが、ポッセとの交流の中で時折「素」の反応(のようなもの)を見せるようになってきている。それは、『夢野幻太郎』としてではない、『彼』自身のものではないか。つまり、ポッセと出会ったことで『彼』の「嘘」は(少なくともその一部は)破片となって飛び散ってしまったのかもしれない。

そして、ここで曲名である「蕚」が指すものも見えてくる。
花びらが散っても残るのが蕚(がく)だ。つまり、『夢野幻太郎』を形作る「嘘」(あるいは「嘘」によって作られた『夢野幻太郎』)=花びらがなくなった後も残るもの、すなわち『彼』自身を指す言葉として「蕚」という語が使われていると考えられる。

さて、『彼』から離れて破片となって飛び散ってしまった「嘘」という花びら達が「この風景を埋め尽くして」消してしまった「道のり」とは、どのようなものなのか。
ここでは、「『彼』がこの先も独りで歩み続けるつもりだった『夢野幻太郎』としての生き方」ではないかと考えてみる。
『彼』はポッセと出会うまでは、「兄さん」の敵討ち(仮)という目的を果たすべく独りで戦ってきたし、もしポッセと出会わなければ独りで戦い続けただろう。その戦いには、『彼』が自分自身ではなく『夢野幻太郎』として生きること、およびそのために纏う「嘘」という鎧、つまり花びらが必要だった。にもかかわらず、それらは『彼』という蕚から離れて飛び散ってしまった。こうなっては今まで思い描いていた今後の展望、まさに目的への「道のり」を見失ってしまう。

まとめると、この連で表現されているのは、ポッセと出会ったことで目的達成に必要な「嘘」(の一部)が壊されてしまい、予想していた未来が見えなくなってしまったことへの戸惑いのようなものではないかと考えられる。

 

合わせ鏡写す 輪郭の影を辿る 避けたものを知る
腕を引く薄紅色の風に舞う賽も踊り追う霞も晴れる
ブリキの歯車動き出す世界にも随意不羈に綻びへと縅を解く
孤独の克服 仕方ないは絶望じゃなく ほら蓮の台を分かつ

三連目は、それまで『彼』が持っていた心もとなさや、ポッセとの出会いがもたらした変化への戸惑いから、徐々に「ポッセと過ごす時間」を肯定的にとらえる表現が増えていく。一行ずつ見ていこう。

一行目、「合わせ鏡」が写す(一般に鏡に「うつす」という時には「映す」と表記される。今回は漢字の選択の意味については保留とする)「輪郭の影」とは何か。ここでイメージされるのは、鏡を向かい合わせにすることで、鏡の中の像が永遠に続いていく様子だ。『彼』は、どこまでも続く『夢野幻太郎』としての自分の像を合わせ鏡の奥まで辿っていき、「避けたものを知る」。『彼』は何を避けていたのだろうか。
根拠はあまりないが、ここでは「『夢野幻太郎』ではない『彼』の姿」だと捉えたい。仮説2に基づけば、鏡にうつる顔は『夢野幻太郎』のものであると同時に、その双子の弟である『彼』自身のものでもある。『夢野幻太郎』で在り続けるうちに向き合うことを避けるようになっていた『彼』自身の姿、思い、感情といったものを、ポッセと出会った後の『彼』は合わせ鏡の中に見いだせるようになったのかもしれない。

二行目の「風に舞う」という軽やかな表現からは、一連目にあった「枷を引きずる」という重苦しさからの解放が感じられる。また、ここで注目したいのは、「賽」(帝統)とともに「薄紅色の風」(乱数)に吹かれたことで生じた「霞も晴れる」という情景だ。霞とは一連目に頻出した「心もとなさ」「曖昧さ」に通じる単語である。それがポッセといることで晴れる、つまり「不確かさ」から「確かさ」への移行が始まっている。

三行目については、まず自分なりに下のように言葉を補って文意を考えてみる。

【ブリキの歯車(が)動き出す世界に(あって)も随意不羈に綻び(という状態)へと(向かうように)縅を解く】

「ブリキの歯車」という言葉には、どこかぎこちない、滑らかには動かなさそうな雰囲気がある。しかも歯車は「動き出」したばかりのようだ。これは、ポッセと出会ったことで『彼』の(『夢野幻太郎』としてではない、自分自身として生きる)「世界」が、がたごと軋みながらもようやく動き出した≒生き生きと体験され始めたことを示していると考えられる。
とはいえ、まだまだ滑らかに動くことのない「世界」である。だが、そんなぎこちない世界にあっても、『彼』は(おそらくはポッセと共に)随意不羈(思いのまま、何ものにも縛られず)に「綻びへと縅を解く」。
「縅を解く」とは、おそらくは鎧の縅(一枚一枚の鉄片?を綴りあわせている糸)をほどく、つまりある種の「武装解除」だ。それは二連目の項で述べた「鎧としての『嘘』」が『彼』から離れていった状態と似ている。ただし、ここでは『彼』は自分の意思で「縅を解」いている。そしてその結果として、「綻び」が生じる。ここでの「綻び」は、悪い意味ではなく、どちらかというと「つぼみがほころびる」というニュアンスのものだろう。
『彼』は、まだ『彼』自身として世界を体験することに慣れていない。しかし、そんな中でも自分を守っていた「嘘」という鎧の縅をほどき、今まで閉ざされていたもの(たとえば『彼』自身の感情など)をほころばせつつある。そんなことができるようになったのは、ポッセが彼の腕を取り、一緒に「随意不羈に」振る舞うからだろう。

四行目、「蓮の台を分かつ」についてはすでに多くの方が語っているので、ここでは「仕方ないは絶望じゃなく」というフレーズについて考える。すなわち、「何が『仕方ない』のか」、「なぜ絶望ではないのか」、そして「絶望ではないなら何なのか」という問題だ。
「仕方ない」とは、一般にはあきらめの言葉だ。やむを得ない、他にどうしようもできない、といった意味で使われることが多い。一体何がやむを得ないのかと考えた時、手がかりとなるのが直前の「孤独の克服」というフレーズだ。孤独というのも意味の広い概念だが、ここでは「わかりあえなさ」という感覚を「孤独」の特徴として考えてみる。
自分のことを誰も完璧にはわかってくれないし、自分は誰のことも真にわかってあげられない。人間が個別の心身を持つ生物である以上それは必然なのだが、この「わかりあえなさ」は人に孤独感をもたらす。その「わかりあえなさ」を「克服」するにはどうしたらいいか。SFなら「完全に融合する」とか「意識を共有する」とかの手段が取れるだろうが(それが幸せなのかはわからない)、『彼』が選んだのは「わかりあえなくても仕方ない」と思うことだった。
先に「仕方ないはあきらめの言葉」と書いたが、あきらめるというのは必ずしもネガティブなだけの行為ではない。あるものをあるがままに受け入れる、受容的・肯定的な行為。あるいは、受け入れた上でできることをやろうとする、腹をくくる行為でもあるのだ。今まで出てきたドラマパートでも、『彼』が仲間を前にして温かい声で、あるいは戦いを前にして覚悟を決めて「仕方ないですねえ」と言ったシーンが何度もあった(気がする。幻聴かもしれない)。つまり、『彼』は「わかりあえなさ」に絶望するのではなく、それを腹をくくってあるがままに受け入れることにしたのだ。『彼』にとって、「仕方ないは絶望じゃなく」望む未来へ進むための前向きな言葉なのかもしれない。
そして、『彼』がそんなふうに思えたのは、ポッセとの関わりがあったからだろう。Fling Posseは、「仲間ならなんでも腹を割って話そう」ではなく、「お互い言えないことがあっても自分たちは仲間だ」という在り方を選ぶ(選んだ)チームだ。お互いどうやってもわかりあえない異質な部分を持つ存在だったとしても、蓮の台を分かつ、一蓮托生と言えるまでの仲間になれる。その確信が、『彼』に孤独を克服させたのかもしれない。

 

巻き戻し歌詞に書き残す旅の途中足音する終熄
明日手にあり絵になる情性、紅月と高潔と豪傑線で結ぶ点
秒針の塗り潰す小節の加筆修正
宙を舞い踊り出す五線譜、目蓋の裏の焦熱を

四連目では、一気に言葉の密度が増し、曲調も激しくなり、『彼』の感情の高まりが感じられる。ここでは、『彼』がポッセとの時間を「確かなもの」として残そうとがむしゃらになっている姿が描かれている。

『彼』がポッセと過ごす時間は、否が応でも流れ去っていく。現実世界には「永遠」なんてなくて、全ては泡沫、はかなく消えていってしまう、心もとない不確かなものだ。だが、『彼』は、物書きとして、あるいはラッパーとして、それに抗う。
「巻き戻し」ているのはおそらくポッセとの思い出だろう。いずれ巻き戻せなくなるほど遠くまで流れ去る前に、『彼』は自分たちのことを「歌詞に書き残す」。しかし、そうしている間にも、自分たちはまだ「旅の途中」だというのに、終熄(終息。おわり。ちなみに「熄」には「火が消える(ように滅びる)」という意味があるそうだ)の足音が聞こえてくる。
だが『彼』は、今この時自分が抱えている「情性」(こころ)を、明日になってもこの手に残る「絵」(情景、記録物、アーカイブ)として残そうとしている。そして、その「情性」の中には、Fling Posseという「線」で結ばれた「点」、つまり自分たち三人(「紅月と高潔と豪傑」。個人的に、紅い月にたとえられた乱数っていいなあと思う。不穏な美しさは彼の「毒々しいまでの愛らしさ」に通じるものがある)の姿がある。
三行目の「小節の加筆修正」という表現は、『彼』が回想に意味付けを行っている行為だと読んだ。「今思えば、あの時の帝統は自分と乱数に無断で借金をしていたからあのような態度だったのだ」みたいな、過去の出来事を今と結びつけて語り直す(解釈し直す)行為で、それは「出来事の羅列」を「思い出という物語」に変える上で重要なものだ。秒針に塗り潰された「過ぎた時間」であっても、『彼』は「小節」という形で捉えて(音楽は、それ自体は時とともに流れ去っていくが、楽譜に書き留めることができる)、そこに「今」の視点から加筆修正をすることができるのだ。
そうやって歌詞を書き楽譜に記した、『彼』とポッセの「物語」を綴った五線譜は、「宙を舞い踊り出す」。「宙『に』舞う」ではなく「宙『を』舞う」という表現からは、五線譜=彼らの物語がまるで自らの意思で動くかのような生き生きとした息づかいを持っている印象を受ける。そして『彼』は、時の流れに消えていくことのない、「確かなもの」として書き残すことができた「物語」を前に、目蓋の裏に「焦熱」を感じたのかもしれない。

 

心の外まで 飛び散った花びら達の破片が
この風景を埋め尽くして消えてしまっても
心の外まで 剥き出しで歩いていった模様と
この感情が伝わってしまったらいいのに

最後の二連はひとつながりの文章として解釈したい。
まず前半の詞は、パッと見では先に見た二連目と同じことを言っているように見える。だが、二連目では「花びら達の破片が道のりを消した」のに対し、ここでは「花びら達の破片がこの風景を埋め尽くして(そのあと)消えてしま」うという仮定の状況が語られている。前者では「花びら達の破片」すなわち『彼』が纏っていた「嘘」、『夢野幻太郎』という外装はまだ彼の周りにあったが、後者ではそれらは完全になくなってしまっている。いわば『彼』そのものの状態だ。
そして『彼』は、もしもそんな状況になったとしても、「剥き出しで歩いていった模様」と「この感情」が「伝わってしまったらいいのに」と夢想する。この部分について、少し詳しく見ていこう。

まず問題となるのは「剥き出しで歩いていった模様」とは何か、ということだ。前半の仮定から、「花びら」が消えたら伝わらなくなるものだということはわかる。先述の通り、「花びら」とは『彼』が『夢野幻太郎』として生きるために纏った鎧としての「嘘」である。それがなくなってしまったから「剥き出し」なのだと考えられる。
辞書で「模様」という単語を調べたところ、「表面に現れた図柄」という意味が載っていた。図柄とは、視覚的な非言語情報だ。図柄を認識するのに「読む」必要はない。つまり、ここでの「模様」とは、図柄のような「言葉で表現されないもの」、もっと言えば言語化以前のもの」を指すのではないだろうか。
ここで言う「言語化以前のもの」とは何か。それは、四連目で『彼』が必死で書き留めようとしていた「ポッセとの記憶」、ポッセとともに体験した出来事やその時に感じたこと、それらが渾然一体となって織りなすひとかたまりに他ならないだろう。
『彼』が纏う「嘘」、つまり『夢野幻太郎』という鎧は、その大部分が「言葉」によってできている。つまり『彼』が世界とつながる最大の手段は言葉だ。彼は心のなかにある「言語化以前のもの」を言語化し、『夢野幻太郎』が発する「嘘」として発信する。
つまり、「剥き出しで歩いていった模様」とは、普段なら「嘘」=『夢野幻太郎』を経由している(≒言葉によって加工している)にもかかわらず、「花びら」が消えたせいでそれがかなわないまま心の外へ出ていった、曖昧な状態の「ひとかたまり」のことだと言える。

また、この部分には『彼』の臆病さ、あるいはためらいのようなものがにじみ出る言葉が使われている。すなわち「歩いていった」「伝わって」「しまったら」の三つである。
まず「歩いていった」だが、この主語は「模様」である。いわゆる擬人法で、こう表現することで、『彼』は(本来は自分の一部であった)「模様」を自分から切り離している。その結果、「模様が(『彼』の意思とは関係なく勝手に)歩いていった」というニュアンスが生じている。ある意味無責任とも言えるが、『彼』が自分のものとして「模様」を提示する、あるいは積極的に送り出す、といったことをためらっている様子がわかる。
同様に、「伝える」ではなく「伝わる」という表現も、「自らの意思の外で」という意味合いが強い。また、「〇〇してしまう」という表現には、「ついうっかり」とか「本意ではなかったが」とかいうニュアンスがある。自分の意思で明確に伝えたい!というのではなく、何かのはずみでうっかりと伝わらないかな、くらいの、まだ迷いがある感じがする。

そして、最後の「のに」についてだが、これは前半と後半をつなげて解釈する必要がある。全体を簡潔に表現すると、

【花びらが消えてしまっても模様と感情が伝わってしまったらいいのに】

という文になる。一般に、「〇〇ならいいのに」という表現には、「〇〇ならいいのに(残念ながら実際には△△だ)」という意味合いが含まれる。この場合「花びらが消えてしまっても(略)伝わってしまったらいいのに(残念ながら実際には伝わらない)」となる。ここから推測できるのは、『彼』が「嘘」、つまり『夢野幻太郎』として生きることを、自分を表現する上で必要不可欠だと思っている、ということだ。
『彼』のコミュニケーションの特徴として、「嘘によって真実を語る」というものがある。デタラメの中に本当のことを混ぜ込んだり、物語という虚構を通して真実の有り様を表現したりするものだ。『彼』にとっては、「嘘」を使わずに真実を語る、すなわち『夢野幻太郎』としての振る舞いをすることなく『彼』のままで自分の心の中を表現することは、不可能であるように感じられているのかもしれない。ゆえに、たとえそれが「偽り」の姿であっても、『夢野幻太郎』として在ることは、『彼』にとってとても大切なことと言えるだろう。
しかし一方で、『彼』は、おずおずとためらいがちにだが、「嘘」のない状態でも自分の内面が伝わったらいいのに、とも思っている。今更だが、「伝わってしまったら」と思っている相手はポッセと考えていいだろう。『夢野幻太郎』を通していない、言語化以前の「ひとかたまり」、言葉にならない思いや感情を、ポッセにも共有してほしい、という願いが芽生えている。そこにあるのは、花が全て散ってしまった後の、ただの蕚としての自分であっても、ポッセなら受け入れてくれるだろうという信頼感なのかもしれない。

 

全体をまとめると、「蕚」は、次のような歌詞だと言える。

『夢野幻太郎』という別人として生きているために、心もとない不確かな存在であった『彼』は、ポッセと出会って共に過ごす中で、少しずつだが自分自身として生き始め、「確かさ」を感じていく。

『彼』にとってポッセおよび彼らとの思い出は非常に大切なものとなり、それらを時の流れに消されないように、自分の武器である「言葉」を使って「確かなもの」として残していく。

『彼』は(まだ)『夢野幻太郎』という「嘘」は自分には不可欠なものだと考えているが、それがなかったとしてもポッセと仲間でありたいという淡い願いを抱いている。

 

以上が、私の個人的な「蕚」の解釈である。
解釈というのは多様かつ自由なものなので、「蕚」に何を見出すかは人それぞれだと思う。
「多様かつ自由な解釈」ができる作品というのは、素晴らしいものだ。私は4,5日かけてこのnoteを書いたのだが、書いてる最中すごく楽しかったし、これだけの長文を書かせてしまう「蕚」のすごさを改めて感じている。

最後になりましたが、こんな素敵な歌詞を書いてくださったbashoさん、ESME MORIさん、そして『彼』=夢野幻太郎として表現してくださった斉藤壮馬さん、本当にありがとうございました。これからも応援しています。