カナリアメイズ

ままならないオタクによる、フリーダム&カオスな雑記庫。

なぜミオリネはスレッタのために頑張るのか?(機動戦士ガンダム水星の魔女7話時点での感想)

突然だが、機動戦士ガンダム水星の魔女を観ている。

 

g-witch.net

 

今まで観たことのあるガンダムは00と鉄血のオルフェンズだけの私だが、ガンダムで学園ものをやる」と知った時は「どうなるんだろう……」と思っていた。

実際に放送が始まってみると、個性的なキャラクターやテンポよくまとまったストーリーなど、大変魅力的なアニメで、毎週日曜の夕方が楽しみになった。

(なお、本記事では前提知識やあらすじを省略している部分があり、「水星の魔女」視聴者向けであることをお断りしておく)

 

さて、水星の魔女第7話「シャル・ウィ・ガンダム?」を視聴した後、私の中にある疑問が生まれた。

それは今作の主人公とヒロイン(ダブル主人公と言うべきかもしれない)、スレッタとミオリネの関係性についてだ。

より具体的に言うと、

「なんでミオリネってここまでスレッタのために頑張ってるの?」

ということだ。

 

ミオリネ本人は作中で「花嫁だから」と言っていたが、当然それだけでは説明にならない。

スレッタは確かに純粋で善良で強くていい子だけど、それだけでミオリネがここまで頑張るのか?とも思ってしまう。

そんなわけでおととい(放送終了後)からあれこれ考えていたところ、なんとなく自分で納得の行く理由が言語化できたので、感想がてら載せておく。

(ちなみに以下の文章はふせったーに掲載したものがベースとなっている)

 

結論から言って、ミオリネがスレッタのために奔走する理由の一つには、

大切なものを奪われたり否定されたりする辛さを知っているから」

というものがあるのだと思う。

 

ミオリネには、大切なものがあった。ピアノや母、温室の植物などである。
しかし、ピアノをやめさせたり母の死を軽んじた(ように見えた)父や、園芸を「地球の真似事」と嘲笑する周囲の人たちによって、彼女の「大切なもの」は毀損され、貶められてきた
ミオリネにとって、それがどんなに腹立たしく悲しいことかは、日頃の彼女の苛烈さに反映されていると思う。

そんなミオリネは、ある日スレッタと出会った。
彼女は出会って間もないうちから、ミオリネの大切なもの(トマト)を思いっきり肯定した。あまつさえ、温室を壊したグエルに謝罪を求めて決闘することにもなった。
この時点でミオリネからスレッタへの印象は悪くなかった(「グエルたちよりずっとマシ」くらいには思っていたはず)だろうが、彼女がスレッタの「花嫁」になり、行動を共にするようになったことで、さらに変化が訪れる。

まず、ミオリネがエアリアルに搭乗して決闘に臨んだ時、スレッタが乱入・頭突きをして、今までにない激しさで「エアリアルは私の家族だ」と言い切ったことで、ミオリネはスレッタにとってエアリアルが「大切なもの」だと理解したのだろう。
だから、自分が発端となった決闘騒ぎのせいでエアリアルが廃棄処分になるかもしれないと知った時、地球行きの絶好の機会を捨ててまで父親に直談判しに行き、スレッタがエアリアルを守るチャンスを作った。

 

また、スレッタから水星に学校を作りたいという夢を聞き、彼女がそのために頑張っていると知ったことで、スレッタも自分と同じように大切な夢を持っていると知り、スレッタ自身が過酷な試験に心折れてもなお叱咤激励した(スレッタを自分と重ねていた部分もあったのかもしれない)。

 

スレッタがエランに惹かれている様子を見ても何だかんだで一定の理解を示していたのも、彼女が誰かを大切に思う気持ちを尊重しようという姿勢の表れだったのだろう。

 
そして、インキュベーション会場での大立ち回り。あの場で孤立無援だったスレッタに、ミオリネはかつての自分の姿を見たのかもしれない。大切なものを奪われる痛み、大切なものを分かち合ってくれる人がいない悲しみを知っているからこそ、ミオリネは手を挙げたのだと思う。
だが、それだけではないかもしれない。あの時すでに、スレッタ(がエアリアルを大切に思う気持ちや彼女の夢)は、ミオリネ自身の「大切なもの」になっていたのではないか。新しく生まれた大切なものを守りたかったからこそ、今までの自分の言動(それらは過去に「大切なもの」をないがしろにされたことへの怒りの表明だったのではないか)を枉げてでも父親に頭を下げて戦う覚悟を示せたのではないか。

ミオリネにとって、スレッタのために動くことは決して「花婿への献身」ではない。それは、「大切なもの」をないがしろにされてきた自分の傷つきを癒やす過程であり、「大切なもの」を持つスレッタへの共感であり、彼女を大切に思う気持ちを貫くためのミオリネ自身の意志なのだと思う。

 

 

ミオリネの意志を目の当たりにしたスレッタが何を思うのか、彼女たちは「大切なもの」を守れるのか、今後の展開を楽しみにしたい。

夢野幻太郎「蕚」の歌詞について1万字くらい解釈を語る(note記事再掲)

※この記事は、2020年3月1日にnoteに公開した記事の再掲です。

 

 

先日、アニメイトヒプノシスマイクの新譜「Fling Posse -Before The 2nd D.R.B-」を買って聴いた。どの曲もドラマパートもすごく良くて、シブヤ推しで本当に良かったと改めて思った。
その中で、特に気になったのが、夢野幻太郎のソロ曲「蕚」(うてな)だった。試聴の段階で詞も曲も歌も何もかもが綺麗だと思っていたのだが、いかんせん歌詞が難しい。難しい熟語とか詩的な言い回しとか、サラッと聴いただけでは意味を捉えづらかった。
フィーリングで聴いても十二分にいい曲なのだが、私は夢野推しであり、このリリックと真正面から取り組んでみようと思った。そして、どうにか自分なりに納得の行く解釈ができたので記録しておく。

アホほど長い文章なので、先に要点を三行で書いておくと、
1.蕚とは夢野自身
2.夢野がポッセと出会って変わったことやポッセを大切に思う気持ちを綴った曲
3.「不確かなもの」-「確かなもの」という対比

みたいな感じである。

基本的には極めて恣意的な解釈であり、論理の飛躍や混乱などもあるだろうし、読みづらい部分も多いと思うが、あくまでも一介のファンの妄想として生暖かい目で読んでいただければ幸いである。

 

本題に入る前に説明しておきたいのが、この解釈がこれまでのドラマパートなどの情報に基づいた、次のような仮説を前提になされたものであることだ。

仮説1:私たちが夢野幻太郎だと思っている人物(以下『彼』とする)は、本当は「夢野幻太郎」ではなく、ただ「夢野幻太郎」として(演じて?)生きているだけである
→これは、今回のドラマパートでの『彼』の発言によるものである。彼の「自分は夢野幻太郎ではない」という言葉には、ただの嘘や戯言ではない響きがあった。

仮説2:本当の「夢野幻太郎」(以下『夢野幻太郎』とする)は、『彼』の(おそらくは一卵性の)双子の兄である
→コミカライズ中に出てきた『彼』の複数の作品に出てくる「双子」というキーワードから、『彼』には双子の兄弟がいることが示唆されていた。双子の入れ替わり・成り代わりというモチーフは、古くから用いられてきたものであり、今作も「『彼』は双子の兄弟=「兄さん」(今回のドラマパートより)のふりをして生きている」という設定である可能性は大いにある。

仮説3:『夢野幻太郎』は何らかの形で中王区の犠牲となっており、『彼』は復讐のために動いている
→これは、これまでコミカライズやドラマパートなどで示された、『夢野幻太郎』は入院中である・(おそらくは中王区による)「人体実験」の存在が示唆されている・『彼』は独自の人脈を持つなどして「目的」のために活動している、といった情報からの推測である。

これら3つの仮説は、主観的な感覚や憶測に基づいた部分もあり、客観的に正しいとは言えない。よって、それらに基づいた私の解釈も、客観的な正しさがあるものではなく、あくまでも個人の感想・妄想の域を出ないものである。予めご了承いただきたい。
また、文中の「ポッセ」という語句は、「Fling Posseの三人」と「『彼』を除いた乱数と帝統」の両方の意味で使わている。どちらなのかは文脈で判断していただければありがたい。
なお、本文中の引用はすべて、夢野幻太郎(CV:斉藤壮馬)「蕚」(作詞:basho、ESME MORI)によるものである。

 では、歌詞を頭から順に見ていこう。

なぞる斑 筆の走り 跨ぐ魚尾佇む白日
あまねく視野に広げた白紙、綴る嘘で誤魔化してく
泡沫の思い 運命も空蝉 枷に引きずる足並ぶつまさき
息づかい、交差しだす色の混ざり合い街の壁も塗り潰してく

一連目で主にうたわれているのは、『彼』の心もとなさだ。

まず一行目、斑とはまだら、まばら、もしくは「斑雪(まだらに降るor積もっている雪)」を指す。
さいころ遊んだ点つなぎ(点を順番に線でつないでいったら絵ができるやつ)を思い出すとわかるが、まばらなものを「なぞる」時には、ある種の心もとなさ、頼りなさが浮かんでくる。この線は本当に正しいなぞり方をできているのだろうか、間違った線を引いているのではないか、といった不安だ。
そんな心もとなさを感じつつも筆を走らせ、魚尾を跨ぐ(ここでは、原稿用紙を書き進めていく、くらいの意味だろう)『彼』は、白日の下に佇む。
ここでイメージされたのは、明るすぎてかえって不自然なほどの昼日なかの情景だ。何もかもが明るく照らされている中、『彼』はそのようなはっきりとした気持ちにはなれず、ただ佇んでいる。

二行目でも、引き続き『彼』の心もとなさが表現されている。
目の前いっぱいに白紙がある状態というのは何とも心もとない。そこで『彼』はそれを埋めるために、嘘を綴り「誤魔化して」いくという。誤魔化しとは、ある意味その場しのぎの行為であり、『彼』が真に実のあるもので白紙を埋められずにいる、という状態だとわかる。
一方で、「広げた」という表現に注目すると、「あまねく視野に『広がる』白紙」ではなく、「広げた」という能動的な動詞が使われていることが、視野いっぱいに白紙を広げたのは『彼』自身の意志だということを示唆している。
ここで、冒頭に挙げた仮説1を思い返してみる。「白紙を広げ綴る嘘で誤魔化す」とは、まさに「『夢野幻太郎』として生きる」という行為のことではないだろうか。つまり、『彼』は『夢野幻太郎』として生きることを、明確に自らの意志で選択していると考えられる。

だが、『彼』はそんな自分の在り方を、やはり心もとない、はかないものだと感じている。三行目に出てくる「泡沫」も「空蝉」も、はかないこと、ぬけがらのようなものを示す単語だ。『夢野幻太郎』の内側にある自分の思いも運命も、所詮ははかなく中身のないものだというあきらめが『彼』の中にはある。それが「枷」となり、その重みに足を引きずり、やがてつまさきが並んで――つまり歩くのをやめて立ち止まってしまう。


だが、四行目で転機が訪れる。息をついた『彼』の前で始まった「交差しだす色の混ざり合い」、すなわちFling Posseの結成だ(余談だが、私は「Shibuya Marble Texture」という曲名に表れているような、マーブル模様としてのポッセ、混ざり合っても溶け合うことはなく、だからこそ美しい模様を描いているポッセが大好きである)。彼らの出会いは、街の壁――直接には中王区との間にそびえる壁、比喩的に考えると彼らを取り巻く障害や閉塞感――を塗り潰し、景色を変え始める。

 

心の外まで 飛び散った花びら達の破片が
この風景を埋め尽くして 消えた道のり

二連目で問題になるのは、やはり「花びら」が意味するのは何か、ということだろう。だが、まず個人的に気になった表現について述べたい。すなわち、「破片」が「飛び散った」という比喩についてだ。

花びらは、多くの種類で一枚一枚に分かれている。飛び散った花びらというのは、いわばそれ自体が「花の破片」と言えるものだ。にもかかわらず、ここで「飛び散った」のは「『花びら達』の破片」だという。つまり、破片がさらに砕けている。これはどういうことだろうか。
一つの可能性として思い浮かんだイメージが、「ガラス細工の花」である。「飛び散る」も「破片」も、ガラスのような壊れ物が割れてしまった状態を連想させる単語だ。つまり、『彼』の心の中にあったガラス(のようなもの)の花が、何らかの理由で割れて、花びらの部分も細かく砕けてしまったのではないだろうか。また、割れた破片が「心の外」まで飛び散ったというから、割れた時の衝撃も大きかったと考えられる。

では、改めて『彼』の心の中にあった「ガラスの花」が何なのかを考えてみる。
ここでヒントになりそうなのが、「そもそも何が原因で『花びら達の破片』は『心の外まで飛び散った』のか」ということである。素直に考えると、『彼』の心に大きな衝撃を与えたのは、ポッセとの出会いだろう。乱数と帝統と出会い、彼らと過ごすことで壊れてしまったものは何か。はっきりとは断定できないが、ここでは「嘘」という可能性について述べてみる。

「嘘」とは、ここでは『彼』が『夢野幻太郎』として生きるために纏っている、鎧のようなものだと捉えたい。それはガラス細工のように繊細で、美しくも脆さをも持ったものである。『彼』はしばしばデタラメの話をしたり種々様々なキャラになりきった喋り方によって周りを煙に巻いたりするが、それは『夢野幻太郎』の幻を見せ続けるため、その内側の何者でもない『彼』自身を覆い隠す(あるいは守る)ための嘘、という側面がある。そうやって「誤魔化して」きた『彼』だが、ポッセとの交流の中で時折「素」の反応(のようなもの)を見せるようになってきている。それは、『夢野幻太郎』としてではない、『彼』自身のものではないか。つまり、ポッセと出会ったことで『彼』の「嘘」は(少なくともその一部は)破片となって飛び散ってしまったのかもしれない。

そして、ここで曲名である「蕚」が指すものも見えてくる。
花びらが散っても残るのが蕚(がく)だ。つまり、『夢野幻太郎』を形作る「嘘」(あるいは「嘘」によって作られた『夢野幻太郎』)=花びらがなくなった後も残るもの、すなわち『彼』自身を指す言葉として「蕚」という語が使われていると考えられる。

さて、『彼』から離れて破片となって飛び散ってしまった「嘘」という花びら達が「この風景を埋め尽くして」消してしまった「道のり」とは、どのようなものなのか。
ここでは、「『彼』がこの先も独りで歩み続けるつもりだった『夢野幻太郎』としての生き方」ではないかと考えてみる。
『彼』はポッセと出会うまでは、「兄さん」の敵討ち(仮)という目的を果たすべく独りで戦ってきたし、もしポッセと出会わなければ独りで戦い続けただろう。その戦いには、『彼』が自分自身ではなく『夢野幻太郎』として生きること、およびそのために纏う「嘘」という鎧、つまり花びらが必要だった。にもかかわらず、それらは『彼』という蕚から離れて飛び散ってしまった。こうなっては今まで思い描いていた今後の展望、まさに目的への「道のり」を見失ってしまう。

まとめると、この連で表現されているのは、ポッセと出会ったことで目的達成に必要な「嘘」(の一部)が壊されてしまい、予想していた未来が見えなくなってしまったことへの戸惑いのようなものではないかと考えられる。

 

合わせ鏡写す 輪郭の影を辿る 避けたものを知る
腕を引く薄紅色の風に舞う賽も踊り追う霞も晴れる
ブリキの歯車動き出す世界にも随意不羈に綻びへと縅を解く
孤独の克服 仕方ないは絶望じゃなく ほら蓮の台を分かつ

三連目は、それまで『彼』が持っていた心もとなさや、ポッセとの出会いがもたらした変化への戸惑いから、徐々に「ポッセと過ごす時間」を肯定的にとらえる表現が増えていく。一行ずつ見ていこう。

一行目、「合わせ鏡」が写す(一般に鏡に「うつす」という時には「映す」と表記される。今回は漢字の選択の意味については保留とする)「輪郭の影」とは何か。ここでイメージされるのは、鏡を向かい合わせにすることで、鏡の中の像が永遠に続いていく様子だ。『彼』は、どこまでも続く『夢野幻太郎』としての自分の像を合わせ鏡の奥まで辿っていき、「避けたものを知る」。『彼』は何を避けていたのだろうか。
根拠はあまりないが、ここでは「『夢野幻太郎』ではない『彼』の姿」だと捉えたい。仮説2に基づけば、鏡にうつる顔は『夢野幻太郎』のものであると同時に、その双子の弟である『彼』自身のものでもある。『夢野幻太郎』で在り続けるうちに向き合うことを避けるようになっていた『彼』自身の姿、思い、感情といったものを、ポッセと出会った後の『彼』は合わせ鏡の中に見いだせるようになったのかもしれない。

二行目の「風に舞う」という軽やかな表現からは、一連目にあった「枷を引きずる」という重苦しさからの解放が感じられる。また、ここで注目したいのは、「賽」(帝統)とともに「薄紅色の風」(乱数)に吹かれたことで生じた「霞も晴れる」という情景だ。霞とは一連目に頻出した「心もとなさ」「曖昧さ」に通じる単語である。それがポッセといることで晴れる、つまり「不確かさ」から「確かさ」への移行が始まっている。

三行目については、まず自分なりに下のように言葉を補って文意を考えてみる。

【ブリキの歯車(が)動き出す世界に(あって)も随意不羈に綻び(という状態)へと(向かうように)縅を解く】

「ブリキの歯車」という言葉には、どこかぎこちない、滑らかには動かなさそうな雰囲気がある。しかも歯車は「動き出」したばかりのようだ。これは、ポッセと出会ったことで『彼』の(『夢野幻太郎』としてではない、自分自身として生きる)「世界」が、がたごと軋みながらもようやく動き出した≒生き生きと体験され始めたことを示していると考えられる。
とはいえ、まだまだ滑らかに動くことのない「世界」である。だが、そんなぎこちない世界にあっても、『彼』は(おそらくはポッセと共に)随意不羈(思いのまま、何ものにも縛られず)に「綻びへと縅を解く」。
「縅を解く」とは、おそらくは鎧の縅(一枚一枚の鉄片?を綴りあわせている糸)をほどく、つまりある種の「武装解除」だ。それは二連目の項で述べた「鎧としての『嘘』」が『彼』から離れていった状態と似ている。ただし、ここでは『彼』は自分の意思で「縅を解」いている。そしてその結果として、「綻び」が生じる。ここでの「綻び」は、悪い意味ではなく、どちらかというと「つぼみがほころびる」というニュアンスのものだろう。
『彼』は、まだ『彼』自身として世界を体験することに慣れていない。しかし、そんな中でも自分を守っていた「嘘」という鎧の縅をほどき、今まで閉ざされていたもの(たとえば『彼』自身の感情など)をほころばせつつある。そんなことができるようになったのは、ポッセが彼の腕を取り、一緒に「随意不羈に」振る舞うからだろう。

四行目、「蓮の台を分かつ」についてはすでに多くの方が語っているので、ここでは「仕方ないは絶望じゃなく」というフレーズについて考える。すなわち、「何が『仕方ない』のか」、「なぜ絶望ではないのか」、そして「絶望ではないなら何なのか」という問題だ。
「仕方ない」とは、一般にはあきらめの言葉だ。やむを得ない、他にどうしようもできない、といった意味で使われることが多い。一体何がやむを得ないのかと考えた時、手がかりとなるのが直前の「孤独の克服」というフレーズだ。孤独というのも意味の広い概念だが、ここでは「わかりあえなさ」という感覚を「孤独」の特徴として考えてみる。
自分のことを誰も完璧にはわかってくれないし、自分は誰のことも真にわかってあげられない。人間が個別の心身を持つ生物である以上それは必然なのだが、この「わかりあえなさ」は人に孤独感をもたらす。その「わかりあえなさ」を「克服」するにはどうしたらいいか。SFなら「完全に融合する」とか「意識を共有する」とかの手段が取れるだろうが(それが幸せなのかはわからない)、『彼』が選んだのは「わかりあえなくても仕方ない」と思うことだった。
先に「仕方ないはあきらめの言葉」と書いたが、あきらめるというのは必ずしもネガティブなだけの行為ではない。あるものをあるがままに受け入れる、受容的・肯定的な行為。あるいは、受け入れた上でできることをやろうとする、腹をくくる行為でもあるのだ。今まで出てきたドラマパートでも、『彼』が仲間を前にして温かい声で、あるいは戦いを前にして覚悟を決めて「仕方ないですねえ」と言ったシーンが何度もあった(気がする。幻聴かもしれない)。つまり、『彼』は「わかりあえなさ」に絶望するのではなく、それを腹をくくってあるがままに受け入れることにしたのだ。『彼』にとって、「仕方ないは絶望じゃなく」望む未来へ進むための前向きな言葉なのかもしれない。
そして、『彼』がそんなふうに思えたのは、ポッセとの関わりがあったからだろう。Fling Posseは、「仲間ならなんでも腹を割って話そう」ではなく、「お互い言えないことがあっても自分たちは仲間だ」という在り方を選ぶ(選んだ)チームだ。お互いどうやってもわかりあえない異質な部分を持つ存在だったとしても、蓮の台を分かつ、一蓮托生と言えるまでの仲間になれる。その確信が、『彼』に孤独を克服させたのかもしれない。

 

巻き戻し歌詞に書き残す旅の途中足音する終熄
明日手にあり絵になる情性、紅月と高潔と豪傑線で結ぶ点
秒針の塗り潰す小節の加筆修正
宙を舞い踊り出す五線譜、目蓋の裏の焦熱を

四連目では、一気に言葉の密度が増し、曲調も激しくなり、『彼』の感情の高まりが感じられる。ここでは、『彼』がポッセとの時間を「確かなもの」として残そうとがむしゃらになっている姿が描かれている。

『彼』がポッセと過ごす時間は、否が応でも流れ去っていく。現実世界には「永遠」なんてなくて、全ては泡沫、はかなく消えていってしまう、心もとない不確かなものだ。だが、『彼』は、物書きとして、あるいはラッパーとして、それに抗う。
「巻き戻し」ているのはおそらくポッセとの思い出だろう。いずれ巻き戻せなくなるほど遠くまで流れ去る前に、『彼』は自分たちのことを「歌詞に書き残す」。しかし、そうしている間にも、自分たちはまだ「旅の途中」だというのに、終熄(終息。おわり。ちなみに「熄」には「火が消える(ように滅びる)」という意味があるそうだ)の足音が聞こえてくる。
だが『彼』は、今この時自分が抱えている「情性」(こころ)を、明日になってもこの手に残る「絵」(情景、記録物、アーカイブ)として残そうとしている。そして、その「情性」の中には、Fling Posseという「線」で結ばれた「点」、つまり自分たち三人(「紅月と高潔と豪傑」。個人的に、紅い月にたとえられた乱数っていいなあと思う。不穏な美しさは彼の「毒々しいまでの愛らしさ」に通じるものがある)の姿がある。
三行目の「小節の加筆修正」という表現は、『彼』が回想に意味付けを行っている行為だと読んだ。「今思えば、あの時の帝統は自分と乱数に無断で借金をしていたからあのような態度だったのだ」みたいな、過去の出来事を今と結びつけて語り直す(解釈し直す)行為で、それは「出来事の羅列」を「思い出という物語」に変える上で重要なものだ。秒針に塗り潰された「過ぎた時間」であっても、『彼』は「小節」という形で捉えて(音楽は、それ自体は時とともに流れ去っていくが、楽譜に書き留めることができる)、そこに「今」の視点から加筆修正をすることができるのだ。
そうやって歌詞を書き楽譜に記した、『彼』とポッセの「物語」を綴った五線譜は、「宙を舞い踊り出す」。「宙『に』舞う」ではなく「宙『を』舞う」という表現からは、五線譜=彼らの物語がまるで自らの意思で動くかのような生き生きとした息づかいを持っている印象を受ける。そして『彼』は、時の流れに消えていくことのない、「確かなもの」として書き残すことができた「物語」を前に、目蓋の裏に「焦熱」を感じたのかもしれない。

 

心の外まで 飛び散った花びら達の破片が
この風景を埋め尽くして消えてしまっても
心の外まで 剥き出しで歩いていった模様と
この感情が伝わってしまったらいいのに

最後の二連はひとつながりの文章として解釈したい。
まず前半の詞は、パッと見では先に見た二連目と同じことを言っているように見える。だが、二連目では「花びら達の破片が道のりを消した」のに対し、ここでは「花びら達の破片がこの風景を埋め尽くして(そのあと)消えてしま」うという仮定の状況が語られている。前者では「花びら達の破片」すなわち『彼』が纏っていた「嘘」、『夢野幻太郎』という外装はまだ彼の周りにあったが、後者ではそれらは完全になくなってしまっている。いわば『彼』そのものの状態だ。
そして『彼』は、もしもそんな状況になったとしても、「剥き出しで歩いていった模様」と「この感情」が「伝わってしまったらいいのに」と夢想する。この部分について、少し詳しく見ていこう。

まず問題となるのは「剥き出しで歩いていった模様」とは何か、ということだ。前半の仮定から、「花びら」が消えたら伝わらなくなるものだということはわかる。先述の通り、「花びら」とは『彼』が『夢野幻太郎』として生きるために纏った鎧としての「嘘」である。それがなくなってしまったから「剥き出し」なのだと考えられる。
辞書で「模様」という単語を調べたところ、「表面に現れた図柄」という意味が載っていた。図柄とは、視覚的な非言語情報だ。図柄を認識するのに「読む」必要はない。つまり、ここでの「模様」とは、図柄のような「言葉で表現されないもの」、もっと言えば言語化以前のもの」を指すのではないだろうか。
ここで言う「言語化以前のもの」とは何か。それは、四連目で『彼』が必死で書き留めようとしていた「ポッセとの記憶」、ポッセとともに体験した出来事やその時に感じたこと、それらが渾然一体となって織りなすひとかたまりに他ならないだろう。
『彼』が纏う「嘘」、つまり『夢野幻太郎』という鎧は、その大部分が「言葉」によってできている。つまり『彼』が世界とつながる最大の手段は言葉だ。彼は心のなかにある「言語化以前のもの」を言語化し、『夢野幻太郎』が発する「嘘」として発信する。
つまり、「剥き出しで歩いていった模様」とは、普段なら「嘘」=『夢野幻太郎』を経由している(≒言葉によって加工している)にもかかわらず、「花びら」が消えたせいでそれがかなわないまま心の外へ出ていった、曖昧な状態の「ひとかたまり」のことだと言える。

また、この部分には『彼』の臆病さ、あるいはためらいのようなものがにじみ出る言葉が使われている。すなわち「歩いていった」「伝わって」「しまったら」の三つである。
まず「歩いていった」だが、この主語は「模様」である。いわゆる擬人法で、こう表現することで、『彼』は(本来は自分の一部であった)「模様」を自分から切り離している。その結果、「模様が(『彼』の意思とは関係なく勝手に)歩いていった」というニュアンスが生じている。ある意味無責任とも言えるが、『彼』が自分のものとして「模様」を提示する、あるいは積極的に送り出す、といったことをためらっている様子がわかる。
同様に、「伝える」ではなく「伝わる」という表現も、「自らの意思の外で」という意味合いが強い。また、「〇〇してしまう」という表現には、「ついうっかり」とか「本意ではなかったが」とかいうニュアンスがある。自分の意思で明確に伝えたい!というのではなく、何かのはずみでうっかりと伝わらないかな、くらいの、まだ迷いがある感じがする。

そして、最後の「のに」についてだが、これは前半と後半をつなげて解釈する必要がある。全体を簡潔に表現すると、

【花びらが消えてしまっても模様と感情が伝わってしまったらいいのに】

という文になる。一般に、「〇〇ならいいのに」という表現には、「〇〇ならいいのに(残念ながら実際には△△だ)」という意味合いが含まれる。この場合「花びらが消えてしまっても(略)伝わってしまったらいいのに(残念ながら実際には伝わらない)」となる。ここから推測できるのは、『彼』が「嘘」、つまり『夢野幻太郎』として生きることを、自分を表現する上で必要不可欠だと思っている、ということだ。
『彼』のコミュニケーションの特徴として、「嘘によって真実を語る」というものがある。デタラメの中に本当のことを混ぜ込んだり、物語という虚構を通して真実の有り様を表現したりするものだ。『彼』にとっては、「嘘」を使わずに真実を語る、すなわち『夢野幻太郎』としての振る舞いをすることなく『彼』のままで自分の心の中を表現することは、不可能であるように感じられているのかもしれない。ゆえに、たとえそれが「偽り」の姿であっても、『夢野幻太郎』として在ることは、『彼』にとってとても大切なことと言えるだろう。
しかし一方で、『彼』は、おずおずとためらいがちにだが、「嘘」のない状態でも自分の内面が伝わったらいいのに、とも思っている。今更だが、「伝わってしまったら」と思っている相手はポッセと考えていいだろう。『夢野幻太郎』を通していない、言語化以前の「ひとかたまり」、言葉にならない思いや感情を、ポッセにも共有してほしい、という願いが芽生えている。そこにあるのは、花が全て散ってしまった後の、ただの蕚としての自分であっても、ポッセなら受け入れてくれるだろうという信頼感なのかもしれない。

 

全体をまとめると、「蕚」は、次のような歌詞だと言える。

『夢野幻太郎』という別人として生きているために、心もとない不確かな存在であった『彼』は、ポッセと出会って共に過ごす中で、少しずつだが自分自身として生き始め、「確かさ」を感じていく。

『彼』にとってポッセおよび彼らとの思い出は非常に大切なものとなり、それらを時の流れに消されないように、自分の武器である「言葉」を使って「確かなもの」として残していく。

『彼』は(まだ)『夢野幻太郎』という「嘘」は自分には不可欠なものだと考えているが、それがなかったとしてもポッセと仲間でありたいという淡い願いを抱いている。

 

以上が、私の個人的な「蕚」の解釈である。
解釈というのは多様かつ自由なものなので、「蕚」に何を見出すかは人それぞれだと思う。
「多様かつ自由な解釈」ができる作品というのは、素晴らしいものだ。私は4,5日かけてこのnoteを書いたのだが、書いてる最中すごく楽しかったし、これだけの長文を書かせてしまう「蕚」のすごさを改めて感じている。

最後になりましたが、こんな素敵な歌詞を書いてくださったbashoさん、ESME MORIさん、そして『彼』=夢野幻太郎として表現してくださった斉藤壮馬さん、本当にありがとうございました。これからも応援しています。

 

「腐女子除霊師オサム」で学ぶBLカップリング決定論

1.はじめに

 今朝(2021.7.5)ツイッターのトレンドを眺めていたら腐女子除霊師オサム」というワードがトレンド入りしていた。気になって見てみたところ、「少年ジャンプ+」に掲載された漫画のタイトルだった。

shonenjumpplus.com


 20P足らずの漫画なので、以降の文章はこの作品(以下「除霊師オサム」)を読んだ前提で書きすすめていくことをご承知おき願いたい。


 さて、「除霊師オサム」は、一言で言うなら「(二次創作として)BL的な読みを楽しむ『腐女子』のカプ論争」を戯画化した物語だ(ちなみに私は近年、成立と普及の背景に同性愛差別が含まれている「腐女子」という単語を積極的に使うのを控えており、この文中でもBL的な読みを楽しむ読み手について、引用箇所以外では「BLオタク」と表記する)。作中では、人気漫画のキャラクター「バン」と「ヒスイ」について、「ヒスバン」派のオサムと「バンヒス」派の怨霊が「自分のカップリングこそ至高」とばかりにバトルを繰り広げる。
 ツイッターを見ていると、多くの読者が「自分はヒスバン/バンヒス派(だと思う)」といったツイートで盛り上がっており、挙句の果てにはジャンプ+公式アカウントがアンケートを取り始める始末となっている。

 

 


 だが、よく考えてみると、原作も何もない、作中で語られたごく簡単なあらすじとキャラ設定だけで、一定数のBLオタクが「自分はどちらのカップリングが好きか」という意見を言えるということは、なかなかに奇妙なことかもしれない。にもかかわらず、なぜ(私含め)BLオタクは自分がヒスバンかバンヒスかを表明できてしまうのだろうか。

 

2.「〇〇なタイプは攻め/受けにしがち」

 「除霊師オサム」において、バンは「元気印でちょっとおバカな主人公」、ヒスイは「クールな天才ライバル」と説明されており、前者は活発な少年風、後者は陰のある美形風のキャラクターデザインとなっている。これはかなり類型的、言ってしまえばテンプレなキャラ造形ではあるが、それこそがBLオタクがヒスバン/バンヒスを表明できてしまう理由である。
 多くのBLオタクは、今まで多くの原作に親しみ、その中で「推しカプ」に萌えてきたと考えられる。そして、一部のBLオタクにおいては、歴代推しカプを振り返った時に、多くの攻め/受けに共通する「傾向」がはっきりしていることがある。


 例を少し挙げれば、「自分は体格がいい方を攻め/受けにしがち」「ツンデレが攻め/受けになることが多い」「心中に失敗して生き残る(仮定の話)方が攻め/受け」などなど、様々なキャラ属性について、「この属性のキャラは攻め/受けにしがち」という「傾向」があるBLオタクは、結構いる(もちろん「原作の関係性によりけりだから歴代推しカプに統一性はない」という人もたくさんいるが)。


 そして、今回のヒスバン/バンヒスにおいて提示されたキャラ属性(主人公/ライバル、元気/クールなど)は、比較的「傾向」がはっきり表れる属性であろう。すなわち、「私は主人公受けにハマりやすいからヒスバンだろう」「私はクールキャラを受けにしがちだからバンヒスだと思う」というように、過去の推しカプ傾向に基づき、ある程度「自分がハマるならヒスバン/バンヒスならどちらか」の見当がつけられるのだ。


 さて、ツイッターで「除霊師オサム」がウケていた理由は、ヒスバン/バンヒス表明遊び以外にもあると考えられる。その一つは、オサムと怨霊がお互いの推しカプの「正統性」を主張し、時に相手のカップリングをdisる「殴り合い」が、いわゆる腐女子あるある」とされるものだからだ(実際にそんな「殴り合い」があるのかの真偽、またそれをネタとして消費することの是非はここでは問わない)。

実際に主張することこそなくとも、ツイッター等を検索すれば、「逆カプ」をよく思わないBLオタクは結構見つかる(そうじゃない人も多いが)。そんな経験を持った読者が、カプ論争を繰り広げるオサムもしくは怨霊に共感して面白がった可能性は十分考えられる。
 だが、作中でも非オタクの少女・カイカに突っ込まれているように、ヒスバンもバンヒスも「同じ二人の恋愛」を描いたものである。にもかかわらず、なぜ「逆カプ」は時として「死んでも許しがたい」ものとなってしまうのだろうか

 

3.カプ論争≒解釈論争≒「自己」を懸けた殴り合い


 「除霊師オサム」の中で、オサムは推しカプ・ヒスバンの正統性を主張するために「バン君ほど万物に愛される受けはいない」と発言する。これに対してバンヒス派の怨霊は「愛されてんじゃない 惚れさせてんだよ!!(だから攻め)」と反論する。ここに、カップリング論争のメカニズムの一端が表れている。


 バンのような物語の主人公は、主人公であるがゆえに物語の中で多くの登場人物に様々な感情(特に好意)を向けられることが多い。それ自体はニュートラルな「事実」である。だが、バン=受け派のオサムは、その「事実」を「バンは万物に愛されている」と解釈し、バン=攻め派の怨霊は、同じ「事実」を「バンは万物を惚れさせている」と解釈した。つまり、同じ「事実」≒原作を見ていても、両者の解釈には差が生じているのだ。

 さらに、オサムの発言には「万物に愛される=受け」という彼女の「傾向」が、怨霊の反論には「万物を惚れさせる=攻め」という彼女の「傾向」が、それぞれ表れている。原作の解釈の時点ではまだ重なり合うところもあった二人の考え方は、この「傾向」のフィルターを通ることで全く逆のものとなっている。


 整理すると、この場面におけるオサムと怨霊の相違点は二つ存在する。


① 「事実」の解釈が違う(愛されている/惚れさせている)
② 解釈と「攻め/受け」を結びつける理屈≒「傾向」が違う

 このうち②について少し詳しく述べてみる。
 そもそも、「愛される」も「惚れさせる」も、「好意を向けられる」という点では大差ない要素である。にもかかわらずオサムと怨霊が逆カプになっているのは、オサムが「みんなに愛されるキャラを受けにしがち」という「傾向」を、怨霊が「みんなを惚れさせるキャラを攻めにしがち」という「傾向」を持っているからだと考えられる。言い換えると、二人が持つそれぞれの「傾向」が、「好意を向けられる」という解釈と「だから受け/攻め(だと私は思う)」という意見表明を結びつける「理屈」として機能している


 重要なのは、この「理屈」自体は何の必然性もない、極めて恣意的・個別的なものである、ということである。オサムが主張する「バン君はみんなに好意を向けられている→だから受け」という理屈と、怨霊が主張する「バン君はみんなに好意を向けられている→だから攻め」という理屈は、言ってしまえば両方とも因果関係もへったくれもない、非論理的なものだ。それぞれの理屈を支えるものとして考えられるのは、二人が原作を読んで抱いた感情であったり、これまで触れてきた作品の影響であったり、はたまた個人的な信念や価値観であったり、いずれにしても極めて主観的な要素でしかありえない。

 ここで、カップリング論争が「殴り合い」になる一つの原因が明らかになると考えられる。つまり、カップリングとは「キャラたちの特徴や関係性を自分の個人的な体験や価値観≒『自己』に基づいてどう解釈したか」の表明であり、カップリング論争とは「自分のキャラ解釈(そこには『自己』が強くにじみ出ている)を懸けたぶつかり合い」なのだ。

 

4.おわりに


 ここまで、「腐女子除霊師オサム」を題材に、BLオタクのカップリング萌えの「傾向」の存在、ならびにカップリング論争の意味について考えてみた。

 書いてみて思ったのは、カップリングおよび攻め/受けの決定の論拠となる「理屈」は、普段意識していないだけで私たちの中に何らかの形で存在しているのだろうな、ということ、だからこそお互いの解釈≒「理屈」を大事にしていかなければ、本当に萌え語りの場が「自己」の正しさを懸けた戦場みたいになってしまうかもしれないな、ということだ。また、攻め/受けの決定に「自己」が深く関わっている、という視点については、まだまだ考える余地があると思うので、機会があったら掘り下げてみたい。

夢野幻太郎「シナリオライアー」とは何だったのか考えてたら6000字超えた

1.はじめに

 ツイッターのハイライトを眺めていると、ヒプマイクラスタのフォロイーたちがざわついていた。調べてみると、夢野幻太郎の最初のソロ曲にしてシブヤFlingPosseの最初のCD(FPSM)に収録されている「シナリオライアー」について、作詞者の森心言氏がツイートしたことがきっかけのようだった。

 ツイートへのリンクは下記の通り(文脈上引用元ツイートも載せさせていただいた)で、要するに

「シナリオライアーの歌詞は、『嘘つきの小説家』というキャラクター設定以外の指示を受けていなかった森氏が、独自に考えたものであった」

ということが明らかになったのである。

  

 

 

 

 「シナリオライアー(以下シナライ)の内容に公式が関与していなかった」という事実は、多くのヒプマイオタク(特に夢野オタク)を動揺させている。私も夢野オタクの一人として、色々と考えてしまったので、思考の整理を兼ねて少し書き出してみる。あくまで一ファンの個人的な考えとして読んでいただければと思う。

 2.なぜオタクは「全部嘘だったのか!?」と叫ぶのか

(1)シナライの内容と受容のされ方

 この文章を読んでいる方に今更説明は不要かもしれないが、シナライがどういう楽曲であるかを軽く振り返っておく。

 本曲は、夢野幻太郎が「『小生』の過去の話」として語るように歌う楽曲である。捨て子だった「小生」は優しい老夫婦に拾われ、貧しいながらも大切に育てられたが、「小生」は老夫婦を思いやるがゆえにある時二人に「初めての嘘」をついてしまった。やがて成長した「小生」は進学したが、学内で孤立し心を閉ざしていた。そんな彼に一人の青年が「友達になろう」と声をかけたが、「小生」は「友達なんていらない」と「二度目の嘘」をついてしまう。その直後、青年が病に倒れたと知った「小生」は彼を見舞い、昔育ての親にしてもらったようにデタラメな作り話を語り聞かせるようになり、今に至る。これが「小生」が嘘つきになった経緯である――という物語は、最後の最後「ま、全部嘘なんだけどね」の一言で締めくくられる。

 シナライで語られた「小生の過去」は、とても感動的で説得力のある物語だった。多くの聞き手がシナライの「物語」に魅せられ、それを(多少の程度差はあれ)「夢野幻太郎の過去」として受け取った(そう受け取られた理由は楽曲の外にもあるのだが、それは後で述べる)。夢野にまつわるファンフィクションの中にも、シナライを前提としたモチーフ(温かな幼少期、過酷な学生時代、「青年」の存在など)が多く登場した。聞き手(特に夢野オタク)にとって、シナライは「夢野幻太郎」というキャラクターを解釈するための論拠となっていたと言える。

 ところが、コミカライズやドラマトラックなどで明かされた「真実」(夢野には昏睡状態の「兄さん」がいる等)によって、徐々に「シナライの内容は『嘘』なのではないか」という考えが聞き手の間でも増えてきていた。そこに森氏のツイートが投下されたのだ。「『小生』の過去」が全て一人のアーティストの創作だと明らかになったことで、「シナライは全部嘘だったのか!?」という声も少なからず上がっている。そして、「シナライが嘘だったら、自分が今まで信じてきた『夢野幻太郎』とは何だったのか」とショックを受けている人もいると思われる。

 ここで、「いや、曲の最後でも『全部嘘だけどね』って言ってたのに、それを信じてしまうなんてあまりにもナイーブじゃないの?」と思われる方もいるかも知れない。だが、それには先ほど触れた「楽曲の外」の理由が関わっている。それを説明するために、私が夢野幻太郎というキャラにハマったきっかけを紹介したい。

 (2)私はなぜシナライを信じたか

 正直なところ、シナライを初めて聴いた時点では、それが本当に「夢野幻太郎の過去」を語っているのか半信半疑だった。出来すぎなくらい完璧な「それっぽい話」だったし、やっぱり最後の「全部嘘だけどね」が効いていた。

 ところが、シナライと同じCD(FPSM)に収録されている、FlingPosse結成の経緯を描いたドラマトラックで、事情が一変する。夢野をスカウトしに来た乱数が「病気の友達のために小説を書いてるんでしょ?」みたいな、シナライの内容と同じようなことを言い、夢野はそれを否定しなかったのだ。私はこのやり取りを以て「シナライは事実だ」と判断し、夢野に落ちた。

 夢野がシナライに描かれていた通りの優しくて一途な男だった、というだけなら、ここまでハマらなかった。私にとっての問題は、「シナライの内容が事実であるにもかかわらずそれを『嘘』だと言った」ことだった。

 「嘘の中に真実を混ぜ込んでしまう/真実が嘘として扱われたって構わない(むしろ望むところ)と思っている夢野幻太郎」こそが、当時の私がハマった夢野だった。つまり、「『シナライの内容は嘘だ』と言ったのが嘘だった」という前提によって、私は夢野を好きになったのだ。

 だから、「『“シナライの内容は嘘だ”と言ったのが嘘だった』のが嘘だった」ということが濃厚となったことに、何の動揺もないと言ったらそれこそ嘘になる。一方で、私個人としてはこれからも変わらずに夢野推しでいるだろうな、とも思っている。その理由について語る前に、「シナライはいつから『嘘(厳密には「非真実」)』になったのか」という疑問について書いておきたい。

 3.シナライはいつから「嘘」になったのか

(1)「シナライが真実だった期間」が存在する可能性について

 最初に、この項で書くことは全てライトファンの憶測であり、妄想の域を出ないことをお断りしておく。

 ヒプノシスマイクは、ご存知の通り「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」である。後で改めて述べるが、この「音楽原作」というのはかなり的を射た表現で、「楽曲から本編シナリオへのフィードバック」が割と頻繁に起こっている。今回の森氏のツイートでは、FPSMのドラマトラック中に出てきた「病気の友達のために小説を書いている」という要素が、森氏から上がってきたシナライを見てから取り入れられたものであることが明らかになった。

 さて、ここで「シナライ=真実」という仮説が有力視されていた/疑われるようになった経過を自分なりにまとめてみる。

 そもそも、乱数の「夢野は病気の友達のために小説を書いている」という認識は、彼が一郎に依頼した「夢野幻太郎」に関する調査結果に基づいたものだった。その調査結果をまとめたのは三郎なのだが、彼は「信憑性の高い闇サイト」および「夢野幻太郎の関係者」からの情報によって「夢野は病気の友達のために小説を書いている≒シナライの内容」は真実である、と判断したし、我々聞き手もそう信じた。

 ところが、後になって発表されたコミカライズの中で、三郎が得た闇サイトの情報は改ざんされていたこと、関係者を名乗る天谷奴という男は「詐欺師」だったこと(さらに後になって、彼は山田三兄弟の父親だと判明する)が発覚する。こうなると、乱数が手にした(≒聞き手が信じた)夢野に関する情報(≒シナライの内容)の信憑性は一気に下がってくる。その後、夢野に関する別の「真実」(昏睡状態の「兄さん」がいる等)が明らかになっていくことで、「(真実が別にあるなら)シナライは嘘なのではないか」という疑いはいよいよ強まり、今回の森氏のツイートで一つのピークに達したと言えるだろう。

 ここで話をややこしくしているのが、ヒプマイの特徴の一つ、「脚本が割と適当」という点である。若干悪口めいてしまうが、ヒプマイの脚本(特にドラマトラック)はよく言えばライブ感満載、悪く言えば行きあたりばったりで、個人的にはあまり信用していない。ドラマトラックでの物語をコミカライズのシナリオで補完するというのも日常茶飯事であり、根幹的な設定も割と適当なんじゃないか、という疑念を抱かざるを得ない部分がある。

 つまり、これは完全な憶測だが、公式(本編シナリオ制作陣)の中で、プロジェクトが進行する過程でシナライの内容が「真実」から「嘘」に設定変更された可能性が否定できないのだ。コミカライズ時点では「嘘」ということに決着していたにせよ、FPSMが発売された時点ではシナライの内容を「真実」として扱っていたのではないか――この疑念について深く追及するつもりはないが、もう一点すごく気になっている部分を書いておきたい。

(2)斉藤壮馬は知っていたのか?

 夢野幻太郎のCVを担当している斉藤壮馬氏。インタビューなどからは彼が夢野に対して真摯に向き合って演じている様子が感じ取れるし、ライブパフォーマンスも素晴らしいものを見せてくれる。そこで疑問に思うのは、「斉藤氏はいつから『シナライは真実ではない』と知って(思って)いたのか?」という点だ。というのも、斉藤氏のライブでのシナライの歌い方が前々から気になっていたのだが、今回の件と合わせて考えると(私の中で)納得の行く推測ができる気がするからだ(重ねて言うが完全に個人の妄想なのであまり真に受けないでいただければと思う)。

 斉藤氏がライブで「シナリオライアー」を歌ったのは2回。2018年11月の3rdライブと2019年9月の4thライブである。その両方ともが、CD音源と比べて明らかに「激しい」歌い方になっていたのだ。特に顕著なのが大サビ前の「小生は何度だって『嘘をつこう』」の部分で、感覚的な表現になるが、CDでは嫣然というか腹の底が見えない感じで「嘘をつこう」と言っているのが、ライブでは「嘘をつこう!」と悲痛ささえ感じる叫び声を上げていた。一方で、最後の「ま、全部嘘なんだけどね」は、演出もあいまってすごくお茶目というかケロッとした感じで表現されていたように思う。

 3rdライブの時は、「斉藤氏(もしくは夢野)はライブだと激情型になるのかな?」などと思っていたのだが、疑惑のコミカライズ(2019.2発表)を経た4thライブの後には、「あれは『芝居がかった演技』なのかもしれない」と思うようになった。そして、今回の件でその思いは更に強まった。つまり、斉藤氏はCD収録時点では「シナライの内容=真実」という前提で歌唱していたが、「シナライの内容=嘘」という設定が固まった(と思われる)ライブの時点では、「夢野幻太郎が『嘘』を語るなら」という観点からパフォーマンスを行ったのではないか、と考えることができる気がする。

 真相は斉藤氏のみぞ知るところだし、これは私が演者としての斉藤壮馬を深く信頼しているからこその妄想である。夢野がどう嘘を語り、どう真実を語るのかを表現してくれるのは斉藤氏をおいて他にないので、これからも素敵な演技を期待したい。

4.それでも「シナリオライアー」は「全部嘘」ではない

(1)「音楽原作プロジェクト」の面白さ

 前述のとおり、「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」であるヒプノシスマイクにおいては、「楽曲から本編シナリオへのフィードバック」が頻繁に起こっている。もちろん「本編シナリオから楽曲へのフィードバック」もたくさんあるが、特にシナライを含めた最初期の楽曲の場合、楽曲提供者はキャラクターについてほとんど何も知らされないまま曲を作っていたそうだ(同時期に発表された麻天狼・伊弉冉一二三のソロ曲「シャンパンゴールド」の楽曲提供者・藤森慎吾氏によれば、A4一枚くらいの資料しかなかったらしい)。個人的には、ここまで情報を絞っていた(あるいは公式側で固めていなかった)のは、「音楽原作」だったからこそだと思う。少なくともプロジェクト開始間もない頃は、既存のキャラクターの個性に基づいて楽曲を制作するのではなく、楽曲から立ち現れてくるキャラクターの個性をそのまま彼らの設定の肉付けに利用したと考えられる。これは、一般的なキャラソンの文脈とは明らかに異なっており、ヒプマイの大きな特長と言えるだろう。

 なお、少し話はそれるが、ヒプマイにおいては別々の作曲者による楽曲同士が相互作用を起こしているケース(引用や、別の曲のアンサーになるような歌詞など)も多くある。これは、サンプリング等のヒップホップカルチャーの流れをくんでいるのではと門外漢ながら思っている。これも他のジャンルでは珍しいことで、とても面白いと感じている。

 ともあれ、ヒプマイというコンテンツにおいて、「楽曲」というのは非常に大きな位置を占めている。そして、「ヒプノシスマイクが音楽原作である」がゆえに、シナライは、ひいては夢野幻太郎は「嘘」なんかじゃない、と言えるのではないかと思う。

 (2)「全部嘘」のシナライの中にある「真実」

 シナライが嘘ではない、とはどういうことか。

 まず、今の私は「シナライの内容」は嘘だろう、少なくともすべてが本当にあったことではないだろうと思っている。夢野幻太郎は捨て子ではなかったかもしれないし愛を受けて育ってはいなかったかもしれないし「友達になろう」と声をかけてくれた青年なんていなかったかもしれない。ひょっとしたら、一部の設定は「真実」として採用されるかもしれないけれど、可能性はそう高くはないだろう。

 でも、「真実」はある。少なくとも、「真実になったこと」はある。それは、夢野の「夢野らしさ」だ。

 今までの本編シナリオを振り返ってみると、「小生」が老夫婦を気遣った優しさは、夢野が仲間に向ける優しさに通じているし、たった一言声をかけてくれた青年を「光」と呼んで物語を書き続ける情の深さは、「兄さん」の残した大事な原稿を乱数のために帝統に預けたことにもつながっているように思う。これは、「シナライが本編シナリオに出てくる夢野の個性を正しく描いていた」というより、「シナライで生まれた夢野の個性を本編シナリオが拾い育てた」といったほうがいいだろう。つまり、「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」において、シナリオライアーが「夢野幻太郎」というキャラクターの根幹(の一部)を作り上げたのは間違いないはずだ。

 だから、私は夢野幻太郎のオタクでいつづけられると思う。きっかけの前提がなくなってしまっても、私が「好きだ」と思った夢野らしさは最初から一貫して存在し続けている。それは、今示唆されている「夢野幻太郎は『夢野幻太郎』ではないかもしれない」という可能性が真実だったとしても変わらないだろう。私にとっては、3年以上見守ってきた『彼』こそが「夢野幻太郎」だ。

5.おわりに

 以上、思うままに書き連ねてみた。文字にする中で、今回自分が何に動揺し何を考えたのかが整頓できたし、自分なりに納得の行く結論を持てた。もし楽しんでいただけたのなら幸いだ。

 最後になりましたが、シナリオライアーという素晴らしい「物語」を紡いでくださった森心言さん、それを夢野幻太郎として表現してくださった斉藤壮馬さん、改めてありがとうございました。

ブログの説明と自己紹介

【この記事は随時更新します】

 

ブログの説明

このブログは、サガタアマネの個人ブログです。

好きなことを好きなように書いています。

主な内容としては、

・漫画やアニメ等の感想

Twitter等で話題になったニュースの感想

・日常生活で思ったこと

などが含まれると思いますが、例外もあるかと思います。

キャッチコピーは「フリーダム&カオス」です。

 

自己紹介

名前:サガタアマネ(佐方雨子)

趣味:オタクコンテンツ全般、文章を書くこと、短歌

その他:地方在住、自閉スペクトラム症(AS)当事者、ナラティヴ

連絡先:sagatamane31★gmail.com(★を@にしてください)

 

ブログ引っ越しました。

はじめましての方ははじめまして、そうでない方はお世話になっております。

サガタアマネこと雨子です。

よろしくおねがいします。

 

さて、私はこれまでTwitterに載せるには少々長い文章を投稿したい時、はてなブログ夜明けの520号室)およびnoteを利用していた。

順番で言うと、まずブログを開設し、その後note利用へシフトしていった感じだ。

 

だが最近、諸々思うところあって、改めて個人ブログで記事を書こうと決めた。

正直、読まれやすさや反応をもらえる度合いで言えばnoteの圧勝だと思うが、あくまでも備忘録もしくはアーカイブと考えれば、はてブロでもいいのかもしれない。

ちなみになぜわざわざ新規ブログにしたかというと、単に「canariamaze(カナリアメイズ)」という新しいドメインに変えたかったからである。

カナリアメイズというのは私がオタクイベントにサークル参加する時のサークル名だ。旧ブログ開設当時はよもや私が同人誌を刷ってインテにサークル参加するとは思いもよらなかった(この話はまたいつか書くかもしれない)ので別のドメインにしたのだが、せっかくなのでサークル名をブログの名前にしようと思い、引っ越しを決めた。

(本当は個人サイトを作りたかったのだが、まずはブログから始めてゆくゆくは……ということにする。最初のハードルは低いほうがいい)

 

とにかく、今後はしばらく旧ブログおよびnoteの記事を(一部)転載しつつ、好きなものの感想やネットの話題について感じたことなど、ぼちぼち書いていこうと思う。

フリーダム&カオスな雑記庫になること請け合いだが、よかったらお付き合いください。