カナリアメイズ

ままならないオタクによる、フリーダム&カオスな雑記庫。

「腐女子除霊師オサム」で学ぶBLカップリング決定論

1.はじめに

 今朝(2021.7.5)ツイッターのトレンドを眺めていたら腐女子除霊師オサム」というワードがトレンド入りしていた。気になって見てみたところ、「少年ジャンプ+」に掲載された漫画のタイトルだった。

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 20P足らずの漫画なので、以降の文章はこの作品(以下「除霊師オサム」)を読んだ前提で書きすすめていくことをご承知おき願いたい。


 さて、「除霊師オサム」は、一言で言うなら「(二次創作として)BL的な読みを楽しむ『腐女子』のカプ論争」を戯画化した物語だ(ちなみに私は近年、成立と普及の背景に同性愛差別が含まれている「腐女子」という単語を積極的に使うのを控えており、この文中でもBL的な読みを楽しむ読み手について、引用箇所以外では「BLオタク」と表記する)。作中では、人気漫画のキャラクター「バン」と「ヒスイ」について、「ヒスバン」派のオサムと「バンヒス」派の怨霊が「自分のカップリングこそ至高」とばかりにバトルを繰り広げる。
 ツイッターを見ていると、多くの読者が「自分はヒスバン/バンヒス派(だと思う)」といったツイートで盛り上がっており、挙句の果てにはジャンプ+公式アカウントがアンケートを取り始める始末となっている。

 

 


 だが、よく考えてみると、原作も何もない、作中で語られたごく簡単なあらすじとキャラ設定だけで、一定数のBLオタクが「自分はどちらのカップリングが好きか」という意見を言えるということは、なかなかに奇妙なことかもしれない。にもかかわらず、なぜ(私含め)BLオタクは自分がヒスバンかバンヒスかを表明できてしまうのだろうか。

 

2.「〇〇なタイプは攻め/受けにしがち」

 「除霊師オサム」において、バンは「元気印でちょっとおバカな主人公」、ヒスイは「クールな天才ライバル」と説明されており、前者は活発な少年風、後者は陰のある美形風のキャラクターデザインとなっている。これはかなり類型的、言ってしまえばテンプレなキャラ造形ではあるが、それこそがBLオタクがヒスバン/バンヒスを表明できてしまう理由である。
 多くのBLオタクは、今まで多くの原作に親しみ、その中で「推しカプ」に萌えてきたと考えられる。そして、一部のBLオタクにおいては、歴代推しカプを振り返った時に、多くの攻め/受けに共通する「傾向」がはっきりしていることがある。


 例を少し挙げれば、「自分は体格がいい方を攻め/受けにしがち」「ツンデレが攻め/受けになることが多い」「心中に失敗して生き残る(仮定の話)方が攻め/受け」などなど、様々なキャラ属性について、「この属性のキャラは攻め/受けにしがち」という「傾向」があるBLオタクは、結構いる(もちろん「原作の関係性によりけりだから歴代推しカプに統一性はない」という人もたくさんいるが)。


 そして、今回のヒスバン/バンヒスにおいて提示されたキャラ属性(主人公/ライバル、元気/クールなど)は、比較的「傾向」がはっきり表れる属性であろう。すなわち、「私は主人公受けにハマりやすいからヒスバンだろう」「私はクールキャラを受けにしがちだからバンヒスだと思う」というように、過去の推しカプ傾向に基づき、ある程度「自分がハマるならヒスバン/バンヒスならどちらか」の見当がつけられるのだ。


 さて、ツイッターで「除霊師オサム」がウケていた理由は、ヒスバン/バンヒス表明遊び以外にもあると考えられる。その一つは、オサムと怨霊がお互いの推しカプの「正統性」を主張し、時に相手のカップリングをdisる「殴り合い」が、いわゆる腐女子あるある」とされるものだからだ(実際にそんな「殴り合い」があるのかの真偽、またそれをネタとして消費することの是非はここでは問わない)。

実際に主張することこそなくとも、ツイッター等を検索すれば、「逆カプ」をよく思わないBLオタクは結構見つかる(そうじゃない人も多いが)。そんな経験を持った読者が、カプ論争を繰り広げるオサムもしくは怨霊に共感して面白がった可能性は十分考えられる。
 だが、作中でも非オタクの少女・カイカに突っ込まれているように、ヒスバンもバンヒスも「同じ二人の恋愛」を描いたものである。にもかかわらず、なぜ「逆カプ」は時として「死んでも許しがたい」ものとなってしまうのだろうか

 

3.カプ論争≒解釈論争≒「自己」を懸けた殴り合い


 「除霊師オサム」の中で、オサムは推しカプ・ヒスバンの正統性を主張するために「バン君ほど万物に愛される受けはいない」と発言する。これに対してバンヒス派の怨霊は「愛されてんじゃない 惚れさせてんだよ!!(だから攻め)」と反論する。ここに、カップリング論争のメカニズムの一端が表れている。


 バンのような物語の主人公は、主人公であるがゆえに物語の中で多くの登場人物に様々な感情(特に好意)を向けられることが多い。それ自体はニュートラルな「事実」である。だが、バン=受け派のオサムは、その「事実」を「バンは万物に愛されている」と解釈し、バン=攻め派の怨霊は、同じ「事実」を「バンは万物を惚れさせている」と解釈した。つまり、同じ「事実」≒原作を見ていても、両者の解釈には差が生じているのだ。

 さらに、オサムの発言には「万物に愛される=受け」という彼女の「傾向」が、怨霊の反論には「万物を惚れさせる=攻め」という彼女の「傾向」が、それぞれ表れている。原作の解釈の時点ではまだ重なり合うところもあった二人の考え方は、この「傾向」のフィルターを通ることで全く逆のものとなっている。


 整理すると、この場面におけるオサムと怨霊の相違点は二つ存在する。


① 「事実」の解釈が違う(愛されている/惚れさせている)
② 解釈と「攻め/受け」を結びつける理屈≒「傾向」が違う

 このうち②について少し詳しく述べてみる。
 そもそも、「愛される」も「惚れさせる」も、「好意を向けられる」という点では大差ない要素である。にもかかわらずオサムと怨霊が逆カプになっているのは、オサムが「みんなに愛されるキャラを受けにしがち」という「傾向」を、怨霊が「みんなを惚れさせるキャラを攻めにしがち」という「傾向」を持っているからだと考えられる。言い換えると、二人が持つそれぞれの「傾向」が、「好意を向けられる」という解釈と「だから受け/攻め(だと私は思う)」という意見表明を結びつける「理屈」として機能している


 重要なのは、この「理屈」自体は何の必然性もない、極めて恣意的・個別的なものである、ということである。オサムが主張する「バン君はみんなに好意を向けられている→だから受け」という理屈と、怨霊が主張する「バン君はみんなに好意を向けられている→だから攻め」という理屈は、言ってしまえば両方とも因果関係もへったくれもない、非論理的なものだ。それぞれの理屈を支えるものとして考えられるのは、二人が原作を読んで抱いた感情であったり、これまで触れてきた作品の影響であったり、はたまた個人的な信念や価値観であったり、いずれにしても極めて主観的な要素でしかありえない。

 ここで、カップリング論争が「殴り合い」になる一つの原因が明らかになると考えられる。つまり、カップリングとは「キャラたちの特徴や関係性を自分の個人的な体験や価値観≒『自己』に基づいてどう解釈したか」の表明であり、カップリング論争とは「自分のキャラ解釈(そこには『自己』が強くにじみ出ている)を懸けたぶつかり合い」なのだ。

 

4.おわりに


 ここまで、「腐女子除霊師オサム」を題材に、BLオタクのカップリング萌えの「傾向」の存在、ならびにカップリング論争の意味について考えてみた。

 書いてみて思ったのは、カップリングおよび攻め/受けの決定の論拠となる「理屈」は、普段意識していないだけで私たちの中に何らかの形で存在しているのだろうな、ということ、だからこそお互いの解釈≒「理屈」を大事にしていかなければ、本当に萌え語りの場が「自己」の正しさを懸けた戦場みたいになってしまうかもしれないな、ということだ。また、攻め/受けの決定に「自己」が深く関わっている、という視点については、まだまだ考える余地があると思うので、機会があったら掘り下げてみたい。